2011年12月16日金曜日

願い事

朝起きたら妖精がいた。曰く、なんでも願い事を一つ叶えてくれると云う、俺は
「みんなが俺のことを愛してくれますように。」
と頼むと、わかったと云って妖精は消えていった。
ベッドから起きて服を着替えると俺はタンスの角に小指をぶつけた。リビングに降りていくと嫁が”会社に遅刻する、はやく行け”と怒鳴り散らし、娘はいつものように挨拶一つせずに学校に出かけて行った。
 会社では上司から叱られ、同僚からはこの前の麻雀の掛け金三千円を払えと催促された。俺は(ああ、俺は幸せだったんだ、そしてこれからもずっと)と思った。何か、他の願い事を頼めばよかったと少し後悔したが、今はこれで十分なようにも思える。

落語『船橋法典』



駅の名前云うのは、変というか、妙な名前のものが多いですね。たんに珍しいところから言えば、久喜、羽黒、安食なんていうのは関東でも珍しい駅名の部類でございます。宇都宮なんかに、かますざかなんて駅もあります。えらい攻撃的やなあー。なにかますんかなー。と思うわけでございます。ところが、これを上回る駅名がありまして。『クリはま』。えらいもんをぶつけてしまったなあー。クリとはまやで。クリ云うたらあれやし、はま云うたら蛤です。駅名決める時に落語家のひとりでも呼べばねえ、落語家なんてのはだいたい助べえですから隠語のなんやかんやがわかったでしょうから、止めたんでしょうけどねえ。とにかく自分の住んでいるところの駅名がおかしい云うんはすんごいいやなんです。僕もいつも嫌な思いしてます。競馬やってる方にとってはメジャーな駅なんですけれども、船橋法典云う駅があります。法典てなんや。法典云うたらあれですよ。ハムラビ法典とか、法律が書いてある本のこと云うんです。船橋法典云うたらなんや、市条例か。ただのローカルルールですよんなもん...。そんな名前なもんですから、友達なんかが来るとこぞって馬鹿にするんです。あるときなんてね、
「おう、よう来たな、よう来たな。なんか酒でも買うていくか」
「遠いな千葉は、よう来んわ。」
「まあ、まあ。ほら、ここが船橋法典や。」
「...ココアはやっぱりバンホーテン?」
「んな事云うてへんわ、フナバシホウテン、ここの駅の名前が船橋法典云うのや。」
「へえー、変な名前やな」
「見てみ、あそこに看板書いてあるやろ、”船橋”に”法典” 法典云うたらあれや」
「ココアやろ」
「ちゃうわ!ハムラビ法典とかあるやろが!」
「知らん、ココアのブランドか」
「違うわ!」


とまあ、こんな風にココア扱いされて馬鹿にされるんです。
でまた駅のまわりもあんまり栄えてない。競馬場だけは立派にあるんですけれど、それ以外はなーんにもない。もしかしたら僕が知らない施設があるかもしれない!と思ってインターネットで調べたんです。今すごいですね、インターネットでなんでも出てくる。写真なんかも出てくるんですね。そしたら駅前の写真が出てきたんですよ。そしたらね、駅前で小学生がなわとびやってる写真。なんでそこでやってんねん。あのー、駅前がタクシー乗り場みたいになって広場みたいになってるんですよ。でもそこが結構車の往来が激しいから危ないんです。なんもこんな駅前まで出てこなくとも家の前の車の少ない道路の前でやればええのに...。結局その時探しても何も目新しい施設は見つかりませんでした。ところがここ数年、船橋法典は目覚ましい進歩を遂げました。隣の駅、西船橋の駅が改装されたのを皮切りに、いろんな建物がたちはじめました。ラーメン屋、ファミリーレストラン、コンビニの10m隣にコンビニ。スーパーの50m先にスーパー。なんか違うもん作れ!!意味あるかいアホ!! ところが、ついにできたんです。大きな建物が。
「よっしゃーこれで有名な駅の仲間入りやーバンホーテンとかココアとか言われんですむわーやったーほほほー」おもて喜んでたんですね。
そいでね、できた建物の名前見たんですよ。


”ホーテンの湯”


こらあかん...まだココアで馬鹿にされるわ...




ー終ー


ひとつきなんぼ

亮介は考えていた。一杯一○○○円のバーへ行き、二人で八○○○円程酒を飲み、ホテルへ行った。ホテル第は全額払ったから、七○○○円。今日この女に総額一万五○○○円使ったことになる。かなり酔っぱらっていた俺は、一度しかセックスをしていない。かなり酔っぱらっていたから、おそらく射精も早かったろう。五十回も突いていない。そうなると一万五○○○円÷五十突き=三○○円/一突き 一突きに三○○円払っていたことになる。そう考えるとラッキーストライクは二十本で四百四十円だから、煙草というのはなんと安い棒であろうか。それに比べて俺の相棒ときたら!誇らしい気持ちになりかけたが結局金を払っているのは自分なのだと云うことに気づき嫌な気持ちになった。
 この一万五○○○円を他の事に使うとしたら俺は何に使ったろうか。服か、いや、容姿の美化に使うならそれは女にくれてやるのと変わらない。食べ物にしたって、一晩で一万五○○○円など、あほらしい。ふぐでも食うのか。となるとやはり、酒と女に使うくらいしか結局あてがないのだ。一突き三○○円、なんて贅沢なんだろう。再び自分を誇りに思った。

2011年12月14日水曜日

けむり

素敵な世界に浸りたいときはいつも酒を飲むようにしている。それも、ドライマルガリータか、ドライマティーニでなくては駄目だ。どちらかと言うとマルガリータよりかは、マティーニが好ましい。そしてシェイクのマティーニであれば尚良い。一杯、二杯とマティーニを飲み干していく。一杯目のマティーニではスパイのような気分を味わう事が出来る。二杯目からは非常にエロティックな気分になり隣に女性がいればこれを口説く。三杯目から七杯目までは何杯でも同じで、ただアルコールを摂取しているに過ぎない。しかし、七杯目のマティーニを飲み干すと、八杯目のマティーニの表面に霧のような、けむりのようなものが立つことがある。そのけむりは異次元に繋がっていて、ふと気づくとその中に吸い込まれていた、という経験を今までに三度した。その中で最も最近のものはことに奇妙な世界に誘われたのだった。


九畳程のその部屋には、面積の三分の一はあるかのような立派なクリスマスツリーがおはしていて、さらに残りの三分の一を埋める大きなグランドピアノがあって、そこに女の子が座っていて、ボレロを弾いている。
「ピアノでボレロ?!」
と俺はそのセンスの無さに驚愕し、全身の穴という穴から汗がにじみ出ていた。当然前述したとおり前の世界ではマティーニを八杯飲んでいたわけだから、そのにじみ出る汗というのがこれはもうジンなのである。

(汗が”ジン”わり)

等と下らない事を考えながら部屋を飛び出したのだが、そこは一面ネオンの輝く風俗街、ひとたびふらつけばキャッチの兄ちゃんが声をかけてくる。先程のボレロのせいで不機嫌な俺はそこに見えたMOTHERというROCKバーに駆け込んだのだった。俺の知らないメタルが流れている。サッポロを頼むとカウンターのマスクしてる姉ちゃんが缶のまま差し出してくる。せめてフタぐらい開けてくれよと思いながら曲をオーダーする。なんとなく、デビットボウイのダイヤモンドドッグスをたのむ。酔っぱらっているので聴いたか聴かないか、で曲が終わる。

「おねえさん、何が一番好きなん。」
と聞くと
「パンク」
とだけ返ってきた。
「イヌは無いんか、イヌ」
「メニューに載ってるの以外はない」

なんともそっけない姉ちゃんだと思いながら音楽のメニューをぱらぱらとめくる。ふとジョンライドンのディスイズノットアラブソングを思い出す。姉ちゃんに頼むが、五分立ってもなかなかかからない。姉ちゃんは棚をがちゃがちゃやっているので

「もしかして見つかんない?」
と聴くと
「見つからないわけねえだろ、そんなベタな選曲」
と言われてしまった。なにもそんな風に言わなくても、と思ったがそのまま飲む。ジョンライドンが終わり、俺はアマレットジンジャーを頼んでドリームシアターのメトロポリスパートツーを頼む。すると
「あ、ごめん。それない。」
と言われてしまう。悲しい。アマレットを少し飲んでとりあえずトイレに行くがもう頭ががんがん、足はふらふら、鏡を見れば驚く事に悲しき中年の顔である。顔を洗うと金を払って店をあとにした。外に出るともう歩くことができず、店を出た横の樽の前でしばし倒れこむ。目がかすむ。ああそうだ、これはそう、マティーニの霧だ。俺は夢の中にいたんだ。
気づけば落合の家のベッドの中だった。何故か下半身に何も身に着けていない状態であったが、部屋の中にその日つけていたズボンがあったので、これを良しとする。

腹が減ったのでラーメンを食いにいく。注がれた水が水道水で、辟易する。ラーメンもなんともまずい。ため息をつきながらこれを食べる。さよなら、幸せ。さよなら、また、マティーニの霧の中で会えたら。





2011年12月1日木曜日

夢日記

42歳だがどう見ても20代にしか見えない女性に恋をする。美しく、身長が高い。お互いに恋に落ちて、セックスしようとすると処女だという。

目が覚める。
体が全く動かないが非常に寒気がする。霊気を感じたので大声で"出ていけ"と言おうとするが全く声にならない。困った。なんとか起き上がると、ドアとキャビネットの5cmほどの隙間に不気味な女がいてこちらを見ている。これはまずい、一目散に家を出て、エレベーターのボタンを押すと、開いたが箱が無く、あの機会の中身があるのみだった。これは可笑しいと振り返り足元を見ると何故か見知らぬ靴がある。もしや夢では…?と思った瞬間目が覚める。ベッドの上である。しかし依然として霊気を感じる。より強くなっていた。あたりを見渡すとやはりあの女がいる。出ていけ!と云うとその女は自分の名を名乗ると(失念した)無数の毒蜘蛛になり俺を襲う。その色の赤と黒の線の色鮮やかなこと!
「待て、俺は蜘蛛が好きだから一匹たりとも踏めないよ」
と言うと、「あら、じゃあ襲うのは道理が違うね」と云って一匹の蜘蛛になる。飼育キットに入れた。
テレビを付けると朝番組をやっており、AKBの街中ゲリラライブのようなものを放送していた。といってもあまり有名な子はおらず、ぼうっとそれを見ていた。何故かセンターの女の子は背中を向けたまま歌っている、テレビの右端には、新メンバーとのテロップが貼ってある。ついにその子が振り返ると、以前付き合っていた事のある遥香であった。歌が終わるとテレビは遥香の特集になった。あいつ、ニュージーランドに行ったんじゃないか、と思いながらその番組をぼうとみる。可愛くなったなぁと感じる。
ところで友人達と5.6名で出かける事になり、専用モノレールのようなもので山を登る。そこで三種類の鍵と錠前を拾う。村についた。村では赤い看板、赤い鬼の仮面を被る風習があり少し不気味である。鍵を紛失したのでそのことを村長に云うと、拾っていたので渡してくれると言う。鍵を受け取った後部屋を出ようとドアを開けると大きな女性がぬーんと立っていた。焦る。村長が村の歴史を案内してくれるという。みんなバラバラに各文化を教えてもらうことになった。案内役の人が声をかけてくれて、その話を聞いていた所ふと後ろを振り向くと村長が大きな木の棒で俺を叩こうとしていた。すかさず避ける。逃げる、仲間が危ないと思い助けに行く。なんとか助けて村を出る。しかしどうしても鍵が気になるので、村へ戻る。すると村に人がいない。突然"ほろろろろろ"と云う声が何十にも聞こえてくる。家々の間から村人が出てきて彼らはみんな赤い仮面とマントをしている。もうだめだ、と思うところに助っ人が入る。村人の女性一人が助けてくれた。ここで目が覚めた。












2011年10月26日水曜日

シラスと蒸しキャベツの醤油みりん煮 

 高校生だったころ、当時付き合っていた彼女の家が所謂”共働き”で、部屋に潜り込んで彼女の母親が帰ってくるのに怯えながら服を脱いだものだった。行為を終えた後も、別段すぐ帰るという訳でもなく、そのまま晩御飯までご馳走になることが多かったのだが、その中で今でも忘れられないメニューがある。それが、主題に挙げた”シラスと蒸しキャベツの醤油みりん煮”であるのだが、彼女の両親、彼女、そして俺と食卓を囲んでいる中どうも俺だけがその皿に箸を運んでいたような気がする。

 その女の子と別れ、約一年もの間思い出を引き摺り回したものの、大学生となった今はもう、懐かしいと云うより、霞んで良く見えなくなってしまっている。それが突如、今日、夕飯を考えていた所ふと思い出したのだ。キャベツとシラスだけで作ることが出来、かつ酒に合い、簡単な料理!生憎レシピは教わっていなかったので、独力で似せる事とした。台所に行きキャベツとシラスがあるのを確認すると、まずはフライパンにゴマ油を敷き暖める。感傷に浸っているうちに油が爆ぜてきてしまった。キャベツがしんなりするまで炒まったら、しらすを入れ、そのまま醤油小さじ2、みりん小さじ1を入れ、よく混ぜたのち、フタをしてタイマーを3分、味を調整して出来上がり。全体的に付いた醤油の焦げ茶色が食欲をそそる。ビール缶を一本開けて誰もいない部屋で”いただきます”と云う。あいつと付き合って以降、とんでもない女もいたし、あいつを越えるような良い女もいた。”ずっと愛してる”と誓った自分を思い出して少し笑った。今、自分で作った料理は思い出の味よりもずっと美味しかった。

2011年9月22日木曜日

厭世の人

チャイムの音で目を覚ます。鎖骨まである髪をはらい机の上の時計を見る。七時、いや、八時か。ああ、そうだ、今日は生協の宅配が来る日じゃないか。んむ、と小さく欠伸をするとベッドから起き上がり、二度目のチャイムに「はい」と返事をすると細めのジーンズを穿いたのみの姿で洗面台まで歩いていき、水の勢いを強くできるだけ強くして顔を洗うのだ。顔の周りの髪が少し濡れる。息を大きく吸って正面に写る顔を見る。二重瞼はくっきりと、睫毛はまるで女性のように長くくるりとした曲線を描いている。鼻はすっと伸び、口びるはまるで紅を塗ったかのように薄いピンクだ。三十を過ぎて肌は少し荒れてきたが、まだまだ美貌は衰えていない。ドアを開けて「おはようございます松浦さん、ここに判子お願いします。」宅配員の男の差し出す紙に判子を押す。五kg程の荷物を受け取ると、また一人の空間に戻ることが出来た。机の上にあるヘアゴムで髪を縛るとその姿は女そのものだった。 
今来た、生協のアルバイトも、二ヵ月程前までは、”判子を押してくれている美女は、この荷物の受け取り人である京介という男と同棲しているのだろうか”と思っていたくらいで、ある時宅配の際にズッキーニを入れ忘れた事があって、俺の声で電話がかかって来たことに、「やっと、男の正体がわかるぞ」と喜び勇んで届けにいったのだが、当然、京介が出て、宅は委員の男は酷くがっかりしたのだが、その直後発せられた「朝これ無いと困るんだよね、ありがと。」という俺の声で度肝を抜かしたというエピソードをこの前聞かせてくれた。
注文表と中に入っている食材に入れ忘れが無いか確かめると、まずズッキーニ、トマト、玉葱、ベーコンを取り出す。玉葱を微塵切り、ベーコンを一センチ幅、トマトはくし型にするとフライパンにオリーブオイルを敷きしばし炒める。玉葱がしんなりしたら、火を消して、鍋に水をいれて、火をかける。水が沸騰するまでの時間に書斎へ行き、好きなCDを選ぶ。今日は、”FOUR SEASONS / THE YELLOW MONKEY”にした。CDをコンポにセットする。ついでに黄色に黒の斑点模様のフトアゴヒゲトカゲのバリのケースの電気を付けて「朝だよー、バリ起きてー」と、語りかける。起きない。手で突いた所なんとか目が開いたのを確認して、もう鍋が沸いているのでコンソメを溶かし、先程フライパンで炒めたトマト等を放り込む。その後ズッキーニを輪切りにし、鍋に加える。特に注意するところなど何も無く数分後にはもう、スープが出来る。オレンジのスープカップに適量を移すとスプーンを入れ、テーブルについて少し飲む。ズッキーニをすくって、先に食べ終えてしまう。太陽が燃えている、が流れている。幸せだ。

歯を磨きながら、今日は何曜日だったか知らんと思案する。金曜日であれば、確か悟の美容室は今週は定休日だ。おそらく六時半頃に夕飯を食べに来るだろう。悟と云うのは、僕の高校時代からの数少ない友人で、都内で美容室の店長をやっている奴だ。週一でうちに夕食を食べに来るが、酒を飲みに来ていると云ったほうが正しいかもしれない。オイルサーディンを作りたいな、あとはズッキーニか南瓜で冷製スープもいいかも知れない。もしかしたら、あいつの彼女も一緒に来るかもしれないから、二人前より少し多目に作っておかなければならないだろう。あとは、そうだ、前菜としてテリーヌ、先日テレビでやっていた通りに作ってみよう。お酒は、ワインが二本あればいいだろう。クーラーの中に入っているのを確認しておこう。そうなると、イワシとサラダ油と、コンソメスープがいるのだろうか。そうなると誰かに買ってきて貰わないといけないが、悟に買って来て貰うとなると仕込む時間が無い。考えた挙句、愛子に持って来て貰う事にした。愛子も、僕の大学時代からの唯一の友達で、フリーター道まっしぐら、僕が学生の時こそ「フリーター」と云って馬鹿にしていたが、今となっては社会でしっかり働き続けられる彼女のほうが、働いていない僕より偉いように思える。早速愛子に電話してそれぞれを必要な量、頼む。こんな生活も、もう五年になる。

高校も、大学も一流に属する所へ入った。大企業にも就職することが出来た。ただ、僕は人付き合いが底抜けに下手だった。高校では、一緒にいても何を話したらいいのかわからなかったし、流行話を振られても、テレビをまったく観ていなかった僕にはよくわからないものばかりだった。そっちのけで嬉々として騒いでいる同級生を見て、ただただ羨ましがるだけだった。悟は、原宿のキャットストリート裏にある古着屋の客同士で知り合いになって、以降、同じ女性と、僕、その後悟が、と順番に付き合ってしまうことが二度ばかりあったが、今でも仲良くやっている。おそらく僕が悟を嫌いにならなかったのは、どちらの女性も、付き合った順番が僕のほうが先であるという事があったからだと思う。大学では、テレビ、雑誌などで色んな話題を拾い、面白可笑しく話す事も上手になった。しかし、今度は周りの連中の無学さが鼻に付いた。テレビも見ず、音楽も聞かず、本も漫画も読まず、ただひらひらと生きる馬鹿共と同じ世界に居住している事が心底くだらなかった。尊敬出来る人間には腹を割って話そうとしたものの、自分が尊敬出来る人間はそれを煙たがるようだった。その事実に心を病み一年程大学を休学した事もあったが、なんとか卒業はすることが出来た。就職後はひた無言に仕事に徹した。同僚と飲みにいっても沈黙を貫き、必要に応じてにこと笑うだけだった。不思議と人は寄ってきたが、今度はこちらが心を開くことが出来なかった。ひたむきに仕事をしていた故、出世だけは付いてきたのだが、五年程働いたのち、いいかげん人と接する事自体が嫌になって、半ば奪い取るように退職金をもらい、それまでの貯金を崩し崩し、やりくりしながら、両親から相続した家に一人気ままに住んでいる。


2011年9月4日日曜日

the ピーズ バカになったのに コード。

バカになったのに
 自堕落ばかりが~  C F C G
おーいぇー     C・G/B B♭・Am Dm7・G7 C
中学までは~    C・B♭ C・B♭ E♭・G C
さんざん無理して  C・B♭ C・B♭ E♭・G C
最後のバカになったバカになったバカになったバカになった のところはE♭・Fをくり返して
最後の「バカになったのに」は E♭・Dm C

too young to die too fast to live

「君がこの林檎ジュースだとしよう。僕がエビアンで、今の状態は、僕がこう、こっちに寄りかかってる状態。でも、いつかこう。二人とも寄りかかったら、お互いどんどん落ちてくと思うんだ、だって」
自分の失恋話を聞いて笑い転げている目の前の男を見て、私は溜息を付いた。
「意味がわからないのよ、本当に。」
一呼吸置いた後にその男はやっと口を開いた
「いやいや、あのね、”別れたい”っていうそいつの気持ち自体は凄くわかるよ。君は誰もが羨むいい女で、言い方古いかしらん、とにかく出来る女で、彼は才能の無いコンプレックス男。でも、まさかそんな、”たとえ”で別れ話なんて、サイコー、ほんと。」
魅力的な男は嘘をつかない。と、云うよりそもそも私ぐらいの女には見抜く事などとうてい出来ない嘘をつくのだ。
その点この長谷川という男は、ぺらぺらと嘘を付いて女を貶め手中に収めるかと思うと、その種明かしを本人にわざと披露する。当然「騙された!」と女は坦々麺を頭から被った様な顔して怒り狂い、長谷川もその失恋に心を痛める(フリをしている、と私は思っている)。彼にとって恋愛と云うのは、失う所までもがその一部である様で、そんな一部始終をいつも嬉々として話している彼を見ている私には、その”体験談”を他人に面白可笑しく話す事が彼にとっての幸せなのではないかと思ってしまうのだった。



「それで、リンゴジュースさん」
「ふざけないで」
「はいはい、由香さん。で、それ聞いてそのまま、はいそうですかって引き下がったの。」
「そんなわけないでしょ、泣き喚いたわ。反論するとかどうとかじゃなくて、単純に意味がわからなかった。」
私はなんだか目頭が痒くて少し擦った。昨日振られた身で、化粧などしている筈がなかった。

「やっぱり男ってのは大人じゃないと駄目なんだよ。」

「大人って何かしら。」
この男は少し考えるフリをしたように見えた。
なんだか悪巧みをしているらしい、この長谷川の顔と云うのが驚くほど無邪気で可愛らしい。
「うーん、君がこのジントニックだったとして…」
「ふざけないで」
私がそう云うと、長谷川はそれ以上大人な男がどうとか、そういった事について語ろうとはしなかった。こいつは、君がジントニック・・・、が言いたかっただけに違いない。

そもそも今日、長谷川は出会い頭から底抜けに陽気だった。喫煙所にいたスッピンの私に向かって歩いてきて、まず一言、周りにも聞こえるように「失恋おめでとう。」と云って手を叩きやがった。そして、”失恋祝い”と称してフィッツをくれたのだが、「彼氏は長持ちしなくても、フィッツのガムは味が長持ちするよ。」と…。そして、「これ、店員さんが失恋おめでとうって書いてくれたから…」と云って渡してきたのが、”こんな男はダメだ!”というタイトルの本だった。確かに裏表紙のところに”由香、失恋おめでとう!”と女性の文字で書いてあった。腹が立ったが、フィッツに関しては私も使ってやろうと、そう思った。とにかく今日の長谷川は”調子”が良い。

そんな事を考えていると、長谷川はいつの間にか店員に「失恋に効く食べ物ってありませんか、いや僕じゃなくてね、こいつがね。」などと云って”激辛豚バラ”なるものを頼もうとしていた。店員は気遣い気味に「ご愁傷様です」と云った。ここには突っ込んでくれる人間は誰もいない。私が物思いに耽っている暇など無いのだ、ちくしょう。

2011年8月17日水曜日

あの日川嶋が云った事

 川嶋と云うのは俺の高校生時代の友人のうちの一人で、よく食らいよく飲めば、女遊びもしたたかこなす、なんと云ったらいいのかわからないのだけれど、あいつのあだ名は師匠だったし、事実あいつは俺達の師匠であった。年齢は自分達と同じである人間に対して敬語を使い師として崇めるのにはそれなり、と云うか、俺達なりのきっかけがあって、ある日川嶋が話してくれた「話」を聞いて以来、奴は師匠になったのであった。当時の俺達には”経験”が無さ過ぎて、途中で相槌を入れる事もそれに対する感想を頭の中に描く事すら脳が認可しなかったのである。



「なあ、お前ら皆童貞と違うだろ、女性と付き合った事あるだろ。でもきっと俺は多分お前らの数倍程その回数が多いと思う。まあ待て、これは自慢とか、そう云った類の話ではない。お前らは俺に対する勝手なイメージを作り上げやれ文化人だとか、最近の言葉で云うとサブカルチャー系男子か、そんでもって色情狂だとか全身ピンクとか云うがな、ほんといい加減にしてくれ。最近な、俺は、とんでもない事に気付いてしまったのだ。とんでもないって自分のサイズがとんでもないとかそういう話でもない。お前らはふと可愛い女を見つけた時、そいつになんとかして気に入られようと、やれ電話したりだとか、やさしくしたりだとか、なんとか気に入られようとする、取り入る。女のあのクソつまらん話に長々と相槌を打ち、本当だったらやりたくもない、皿くばり、エスコートみたいな気遣いに精を出す。そして何万もの金を使って女を喜ばせる為にただ齷齪と、道で小銭でも探してた方がまだ儲かるような時給のアルバイトで血と汗流して生きている。そしてまんまと女を射止めた後首尾よくセックスをする時、その時でさえもお前らは、やれ女が感じているかどうかだとか、伸び過ぎた爪が子宮に傷を付けないかどうかなんて事で頭をいっぱいいっぱいにさせながら腰を振っている。俺には耐えられない。その、女性に支配されているというマゾ的な生活をどうして続けていられるのか、俺には皆目検討も付かない。しかし、つい最近までそれに支配されている俺がいたのだ。セックスの為に女におべっか使い、金を使い、そして気を使って性欲半分にセックスセックス。こんな生き方をしていたら俺はきっと気い狂いて死んでしまう。そこでだ、昨日俺はデートがあった。10分程遅れると云う連絡が来た。待ったと思うか?ここまで云っていて待ったと思うか?答えは、待った。云うてるのと違うと云われても仕方が無いだろう、しかし俺は事実そこで10分間待っていたんだよ。しかし、その時の俺の心持ちといったら、まるで初めて食べ放題バイキングに連れて行ってもらえる幼な子のような、そんな多幸感が満ち溢れていたのだ。俺は言い訳を垂れ流しながら到着した女に公衆の面前でまず腹に蹴りをぶち込み、その衝撃で遠くへ行ってしまわぬ様胸倉を掴み寄せた挙句もう一度顔面に、今度は拳を叩き込んでやった。感想ねえ、射精するかと思ったよ、それぐらい気分は高揚した。自分が何故殴られたのかわからないと云う困惑の表情と恐怖がサラダになって俺の前に運ばれて、それを手掴みで食ってる気分。その後のセックスといったらもう、あれだよ、俺の俺による俺の為の、と云う奴だ。サンドバッグに穴があって、スピーカーを付けたらあんな感じになるのかな、もうそこら辺は察してくれよ。手を縛られ動くこともままならぬ喘ぐ裸体の人間の姿と云うのは、他の動物に対して、人間の進化が、知恵と言葉と云うものが如何に思い上がった不要の道具であるかと云うのを証明してくれるんだ。フェミニズム糞食らえ、だ。よく、自分で自分の事をサドだと云う男がいるが、あれは違う。女性がマゾ的であるという保障の元にしか自分のサドを遂行できない様な奴は、支配していると云う状態を生み出してくれている女の方に支配されているに過ぎない。より甘い快楽を!快楽とは何かって?痛みだよ。痛み。それの最上級は命を奪う事だ。俺達はセックスの度に女を殺してやらなきゃならんのだ。殺しに限りなく近いセックスを。本当に殺してしまえるならそれはそれで一番良い。支配の最上級も命を奪う事だ。支配と快楽は同義なのだ。自分の好きな女性に関して、俺のために片足を捧げるくらいの女がいたら俺は申し分無い。片足そっくりそのままを根元から切って欲しいのだ。生物としての五体満足から敢えて一つランクを落とした人間。自分より弱い生物に対して感じる圧倒的優位。それが支配だよ。男と女だよ、セックスだよ。わかんねえかなあ。」
そう云うと川嶋はそそくさと家へ帰ってしまった。この
話を聞いていた俺を含め三人の男子高校生達は
唖然を抱えて帰路に着いたのだった。

 川嶋の自殺の知らせを聞いたのはその次の日の朝だった。

2011年7月18日月曜日

夢日記、一

こんな夢を見た。

 突然部屋のブレーカーが落ちた。何も見えなくなる。PCも何故か、見えなくなる。
作業中だったので焦ってむやみやたらにマウスをクリックしたところ、如何わしい広告をクリックしていた。
ウイルス様が通る
なんとそのウイルスは機械的に動くものではなくて人間が操作しているもので、こちらがウイルスをはじき出そうと云う間にそれを嘲笑うかのようにそれに抗じる手段を打ってくる。諦めてネット回線を切り、相手を強制的にログアウトさせる。通信履歴を見る。相手の名前は『しら太郎』だった。
 
 深夜になり、奴の寝ている間に削除してしまおうとしたところ一通のメッセージが表示された。
『貴方に話したいことがある。○○町××駅へ来たれよ』と云う内容だった。行ってみるとそこは芸能事務所で、プロデューサーのしら太郎に連れられて特別な部屋へ。そこで遥香は実は元ジュニアアイドルだったことを知らされる。以前の事務所の以降で整形手術を行い続けた結果が今の顔らしい。前の顔を見せてもらった所、黒髪で清楚な女の子だったが確かに今程可愛くなかった。非常に可愛そうだと思いながらその話をきいていると、詰まるところ俺のPCの中にあった遥香の写真を削除したいらしい。ウイルスなんぞを使いやがって、それならそうと早く云え。話はついたがもう一度遥香に合わせて欲しいと頼んだ所、もう一度胸の中に彼女を抱く事が出来た。別れを交わし、家に帰る。

家に帰る途中に先日知り合った慶応の金髪君と会う。強引な交渉の結果うちに遊びに来てくれる事に。
よくわからない話を淡々としながら俺の心は昂ぶり、まるで彼女を初めて家に入れたような、そんなどきどきがあった。五時四十五分を回る所で彼はそろそろうちに帰りますと云うた。引き止めた所、でも飯食わなきゃいけないんで、とかそんなことを云われた。あれ、今日は何か大事なことがあったんじゃなかっけ。



そうだ、今日は、祭じゃないか。

2011年7月12日火曜日

マハラジャのうた

まあまあの映画観て なあなあの感情に 蹴りつけに行こうぜ ぶち殺してやるぜ
俺とお前は両想い どうもお互い殺したい

まあまあの人生で なあなあの日常で ラブホテル行こうぜ ぶちこんでやるぜ
俺とお前は両想い どうもお互い愛したい


一杯の酒で自由をトリップ 一杯の愛で世界をトリップ そいで平和宣言 平和宣言 平和宣言
「我々は一般常識に乗っ取り、平和を愛する事を宣言します。優先席に座りません。赤ん坊はどれでも可愛いです。TVを観ましょう、笑いましょう、怖がりましょう、泣きましょう、泣きましょう、泣きましょう……」

列車がすいていて、他の人は全部絶滅してて、列車が脱線したら 人類滅亡
その列車の中で俺はすこぶるやさしい気持ち あいつの好きな歌を聴く そんな夜

君はどうしてなんでそんなに不細工なんだ

ほら蜜柑だって
こおろぎだって
枯れ木だって
爪垢だって

こんなに 美しい!

一杯の酒で自由をトリップ 一杯の愛で世界をトリップ そいで平和宣言 平和宣言 平和宣言
一杯の酒で自由をトリップ 一杯の愛で世界をトリップ そいで平和宣言 平和宣言 平和宣言
一杯の酒で自由をトリップ 一杯の愛で世界をトリップ そいで平和宣言 平和宣言 平和宣言
一杯の酒でトリリトリップ トリップでトリップトリップ そいで平和宣言 平和宣言 平和宣言(トリップ)
優先席に座りません 赤ん坊は可愛い TVで爆笑 泣きましょう GO!

2011年6月26日日曜日

胡瓜、一。

 ひとのねがいは十人十色、薬師、飛脚、八百屋、牛乳屋、魚屋、畳屋、なりたいものはそれぞれあるだろうが、胡瓜の場合どいつもきつも生まれいづるころから夢見て病まぬのは、料亭のねたになることで、みな物心ついた頃には、それに選ばれるような形格好になるべく日々鍛錬を重ねておるのである。とはいえ、「阿」といえば、「吽」というように、胡瓜自身は粒の一つも動かせないもので、料亭におろされるような立派なものになるかどうかは、こんぴら山の農家のじじい、甚吉の手腕に依るところである。毎年毎年このじじいの畑からは見てよし、食ってよしの瓜が育つのだが、それは酔いどれの甚吉の、いい加減に耕したのと、肥撒き、水遣りが偶然に偶然を重ねて効をなしているわけだが、そんな出鱈目な作り方をしておるもんだから、寸詰まりなものや、ばけもの胡瓜がちょこちょこできる。他より小さいからといって実がつまっててうまいというわけでもないし、大きいからといってよく育ったわけでもないので、そういう、アブノーマルな瓜でなしは料亭のねたになりえない。ちょうどいいおおきさで、ちょうどよくそり返り、ちょうどよく実がしまっており、つぶつぶが沢山あるのがうまい。今年の甚吉の畑の、甚吉の家のそばにある畑にはちょうどそういう、しっかり、ねたになりそうな胡瓜が、ちょうど大きな花の下にぶらんと吊られておるので、周りから「はなたれ」と呼ばれておった。



野菜というのは元来世話しない生き物であって、暇と見ると話しかけてくる。そもそも自然界で動けない野菜どもが喋る以外になす事を探すほうが難しいのである。あるとすれば寝ることくらいだが、周りの連中も、もっぱら喋ってばかりいて昼寝なんてものは困難を極める。
「はなたれさん、はなたれさんよ。」
声を掛けてきよったのは前述した胡瓜の内のひとつ、長さっ足らずの寸詰まり、あまりに詰まってしまったものだから先端あたりおよそ陰茎のようで、誰もが陰口にそいつのことを男根呼ばわりしておった。男根は卑屈に笑いを浮かべると、ええ、はなたれさん、ぼかぁあんたがうらやましい、なんでじゃ、ぼけ、いやぁあなたのように、形もよく、ていよくそりかえってきれいな色をしておるのできっと腕のいい板前さんにきらきらにされるにちがいないやぁ、とおもいましてね、そうだろうそうだろう、僕もそう思っておる、わたしも糠漬けなんかにされるよりきちんんと調理味付けされて身なりのよろしい人間様に食っていただきたいものですよ、あほ、貴様はそうだから立派に成長できんのだ、貴様なんぞ糠漬けどころかかぶとのえさだ、こう考えろ、人間が、こんなに綺麗に育った胡瓜様を食わさせていただいておる、そう思うべきだ、しかし、そういう心持ちになるためにはきみぃ、もっとしっかり大きくならなあかんよ、はぁ、そういうものですか、きみもちょっとは体を揺らして、重力というものに実をまかせてみてはどうだね、伸びるかも知らん、わかりました、やってみましょう。男根はそういったことを喋り散らかしたと思うと、茎のしなりをつかってびよんびよんと縦に揺れた。それが、人間のいうちんこを動かしておる姿そのものだったので、俺は笑いを堪えるのに必死であった。
今度はばかでかい、まるでサッカーボールとためをはろうかという巨大なパンプキンがはなたれに話しかけてきた。おまえというのは、色形がすぐれておるからといって、おれの大きさにはかなわんだろう、ひれふせ、ひれふしてみろ。ははあ、あなたの大きさには感服するばかりであります、しかしぼくは瓜として生まれてきてしまった以上ひれ伏すことはおろか、あなたのように地べたに這いつくばることができないのであります、しいてはこのように陰茎のような僕の体をぶらぶらりと揺らすことでお許しを頂きたい限りでございます、と申したところ、周りの胡瓜一同はおろか、パンプキンのなかまうちですら笑い出してしまい、パンプキンは顔を真っ赤にして土に埋めているばかりであった。そもそも俺は懐石料理のねたになりたい、という強い願望はあるが、逆に俺なんか、そんな大層なものに選ばれる程姿格好が恵まれてはいない。自虐体質だな、俺。だからといって、誰かに罵倒されるような筋合いもないのだよ、くそ。だから、俺を褒めるものに対しても蔑むものに対しても惜しみない皮肉を厭わないぜ、なんだってお前ら五体不満足の相手なぞしてやらねばならんのだ、俺はそれこそ最高の胡瓜ではないが、平民どもがサラダにして喰うくらいだったら亭主が「おや、今日の胡瓜は美味しいね。」なんて一言を妻に言うくらいの胡瓜ではある。そもそも俺達胡瓜のようないち野菜風情には固体差など殆どあってないようなもの、あってもそれはおのが決めることではなく人間様が決め付けることであって、もしいただくのが人間でなくリス公かハム公であった場合、うすくてやらかくてまるで芯のない胡瓜がうまいと感じられるかもしれないし、あのちびででぶな男根やろうも、蟋蟀に食わせりゃ旨いというかもしれないのだ。そりゃ俺だって毎日あの甚吉が撒く何十年井戸の奥底で澱んでいた水よりかは、あそこに見える霊峰富士の雪解け水のが旨いだろうとは思うが、五体不満足の胡瓜どもは甚吉がくれるそれをうまいうまいと云いながら飲んでいるじゃあないか、あほ。グルメグルメというとるあのお化けパンプキンなんて地べたにおるから、自分の飲んでる水がどこから来ておるのかも知らない。その癖あいつは「いやー矢張り甚吉の水はセンスがいいね、こう、スカッとサワヤカというかなんというかこう、それでいて甘味がある。俺くらいのグルメ、もし来世人間にでも生まれ変わったなら水一つにも俺はこだわってやるね、ああ。」なんて云ってるもんだから誰も事実を教えてやらない。事実を教えてやる奴が一人でもおればあいつはこんなに他の奴にいちいちケチをつけるような悪い奴ではなくなると思うのだが、如何せん彼の生き方がスカッサワヤカしないものになってしまうことを懸念して誰も云わない。基本的にこの畑の奴らはいい奴だ。といっても俺も前世の記憶があるとか、以前他の畑におったとかそういう訳ではないのだけれど、なんとなくそんな気がする。以前甚吉が酔っ払って俺達に日本酒を撒いた事があったが、胡瓜一同は根っこを通してきちんと皆に行き渡る様に分配していた。他の種類はどうだか知らないが、皆でたのしくぎゃあぎゃあわめき散らしていたので、きっと皆行き届いていたに違いない。待てよ、そのときパンプキンは一人酒が来なかったといって文句たらたらだった記憶がする。何分その時の事は酔っ払っておったので詳しくは覚えていない。その時最初で最後であろう酒の味、そして宿酔というのを初めて味わったのだが、此れほどに素晴らしいものは無かった。というのが、まず起きた時に、朝の光がいつもよりやけに輝いて見える。何事か辺りを見回すと、目に入る総てがきらきらと輝いていた、まぁ、俺の目が何処にあるかとかそういうことは置いて、太陽があかるい、雲はしろい、大地はみずみずしい、水たまりが光を反射していて、黄色。まるで好青年のように辺り総ての野菜に朝のご挨拶でもして差し上げよかなと思うくらい!ワンダホー、ビュティフォー。もしこんな思いがまた出来るくらいだったら、俺は来世は人間になりたいなと思うんだ。それも、五体不満足ではなくて、ある程度顔格好の整ったある程度の人間に。嗚呼、人間になりたいな、人間、人間。人間ていいな。酒が毎日飲めて、体を動かせて、遊べて、俺達野菜の殆どを喰うことができて、そして生殖行為を快楽と供に自ら行うことができるという、人間いいことだらけじゃないか、畜生。俺達野菜はおしべがどうとかめしべがどうとかいう受粉でしか生殖行為を行うことはできないし、そもそもふらふらよたよたと彷徨い飛んできた何処の馬の骨かもわからんような花粉と生殖しなければならないのだ。無論、行為は終始無言でおこなわれ、お互いやらなければならない仕方ない義務労働を終えた虚無感に包まれてそれを終えるに違いないのだ。その点人間は愛の有無はとりあえず、生殖したいと思えるような異性を見つけ、生殖行為の対象というものを選ぶことが出来る、なんて素晴らしいのだろうか。嗚呼俺は胡瓜なんて厭だ、人間、人間に生まれ変わりたい。人の女の、おまんこに入れてみたい、快楽を、感じてみたいよ、ああ。俺はしがない胡瓜で、胡瓜の中では割としっかりした身持ちのある「はなたれ」だが、それでも胡瓜だ。喜びがあるとしたら、懐石料理になるくらいじゃないかね。懐石料理になれたら、神様、来世で人間にして下さるというのはどうでしょうか。よし決めた、俺は懐石料理になってやる、それまでにしっかり鍛錬を重ね、この畑いちの胡瓜になってやろうではないか。

頑張る


「嗚呼、もう死んじまいてえ!」

五杯目の電気ブランを飲み干すと、俺は大分ふらふらしてきて、こうなってくるといよいよまともな事は云えなくなってくるのであって、話題は女と生足と、あとは乳房と酒、あれ、セックスはもう云ったかな、とにかく、そんな感じの事が頭の中を飛び回りはじめる。昔わたパチなんて駄菓子があったが、あれが脳内で弾けまくってくれてると解釈してくれていい。

今日は誇りある禁酒生活の一日目、勝って来るぞといさましく、家を出たのがこのザマだ。友人の友人のそのまた友人くらいの男に遭遇し、ものの三分話すうちに酒を飲みに行くこととなった。どんなに赤の他人であっても酒という友人が仲介してくれる限り、話のねたが尽きる事は無い。

「じゃあのみにでもいこか」
「あそこの店はいいぜ、なにせ時計がないし、窓もないから朝か夜かは勿論、晴れか雨かもわからない」
「そりゃ、ノー天気なことで」
ロータリーで二人でケタケタ笑っていた。結局、そのノー天気な店とは全く違う、いつものワンコインバーに入った。

「わかる、わかります、俺も死んじまいたいですよ」
設楽と名乗るこの男も俺とペースを同じく五杯目の山崎のロックを口の中に流し込んで呟いた。
「でもね、嫌なことでもいい事でも、自分の都合のいい様に考えていいんです、それが、生きる為の力なんです、南に帆は向くんです」
「それはつまり?」
俺は指でマスターに"同じの"の合図をする。
「金八先生の、ホラ、人と云う字がどうのこうのって、あれ嘘ですよ。人ってのは一人でいいんです、ほらっ!」
と云うと彼は席をたつと大きく股を広げて仁王立ちしたのだった。設楽はおかっぱ頭、スキニーにぴったりしたTシャツを履いていて、その人の字がまるでマッチ棒のようでひどく滑稽だった。
「じゃあ二人いるときは、人じゃなくて何になるんだ?」
「それはね、セックスしかないんですよ、セックスはベッドでするでしょ、あと、服脱ぐでしょ、すると、こう、ね。」
そう言うと設楽はマスター、ペン、といって紙にペンで”肉”と書いた。
「おおーッ!」
俺は椅子から立ち上がり設楽と固く握手を交わした。
「すごいよッ!すごいよあんたはッ!」
酔いと驚きで大声が出たつもりだったが、受験勉強で頭をぱーにした大学生達のヴォリュームはそれすらかき消してしまう様だった。
「まあ、何も考えないで生きてた方が人生楽しいんじゃないですかねェ、成仏しませんよ」
この男、まるで御仏のような悟りの心を持つ男だ。素晴らしい。”明日の昼飯は何を食おう”なんて他愛もない考え事でさえ6分経てば”もう駄目だ、死んでしまおう”になってしまうくらいネガティブな俺にとって彼の楽観主義は九死に一生、蜘蛛の糸だ。ただ、俺一人がよじ登るにしても罪業の多さで糸が切れてしまわないか知らん。
「でもどうせならセックスも酒も、ドラッグも、やりきってから死にてえなあ。」
「だから、毎日酒飲んで薬やって、セックスしましょうよ。」
それから俺達はなんとなく、少し黙った。

俺達はもう純粋じゃない。かつては絵本を読み聴かせられていた子供だったかもしれない。折り紙折っておててつないで、それが一生続けばいいと思っていた。どうだろう、今、俺達は骨折り損だ。繋いでいるのは手と手じゃなくて、損得に繋がれて生きているのだ。
コップの中の電気ブランを一気に飲み干した。後はたぶん、大声で拓郎を歌った。

”人間なんて ららあららららららあ”

バーの椅子に寝転んで、おそらく十回目あたりの”人間なんて”辺りで俺は、疲れて眠った。

「てめえはっきりしやがれ、やったのか、やってないのか!」
「うるせえそんなもの覚えてないものは覚えていなんだ。」

夢の中で俺は、彼氏のいる女に手を出して彼氏に殴られると云う愚行に走った様だった。世の中にこんな恥な生き方があるか、俺はまだまだマシなほうだ。下には下がいる。もうちょっと生きていようと思って目を開けた。

2011年6月7日火曜日

追われてないと 逃げるたのしみもない
いつか死ぬこと 生きているのがたのしい

枯れた気持ち携えてどこに向かうの
荒れた砂漠 泳いでくイメージ

さあ僕の目の前に
さあ両手を叩いてわらって

騒いでいるのが見えるだろう
走っているのが見えるだろう
踊っているのが見えるだろう
愛しているのが見えるだろう

みんなおれさ みんなきちがいさ

2011年6月2日木曜日

逃走



「私は、今までずっと、生真面目だったんです。そろそろ羽を伸ばしたいの、違う世界が見たいの。」
優子がウーロンハイを片手にそう云った。
「奥寺さんは私の知らない遊びを沢山知っていそうですよね。」
俺は瓶のモヒートが空になるのを口で確かめて、答えた。
「優子ちゃんも、知りたい?」
頭の中に流していたBGMはぎゅ、ぎゅいーんと浅井健一のリトルリンダに変わり、キザを気取るに調度いい塩梅の
優子は数秒間の沈黙の後、十数センチ程近付き、こくと頷いたので、俺は大きく口を開けてそのまま優子を飲み込むに至った。彼女の神経がぎこちなく麻痺していき、毒牙がついに下半身まで覆い尽くすともう唯の操り人形になって、俺の誘導するがままにモーテルへ。

-BGM変更、WE ARE THE CHAMPIONS/QUEEN -

疲れ果てて眠っている女を尻目にモーテルを抜け出しズボンのポケットから煙草を抜刀すると、外は霧雨が降っていて、クルッとそれを鞘に戻さねばならなかった。ああ、ちくしょう、ついてねえのな。どうしようもねえな、俺、どうしようもないな、神様。どうしようもない男にはどうしようもない女が寄り付くと云うが、どうしようもない男にこそ今まで真っ当に生きてきた、親の云うままお受験、それも名門女子高校女子大学ですみたいな女が怖いもの見たさでついていく事を俺は知っている。ホラー映画みたいなもんだよ、見たくないけど見たいんだ。それにその夜不安と憔悴で眠れなくなる事だって餓鬼じゃあないんだから知っているはずで、それでも見てみたい馬鹿は沢山いる。でもきっとそれは真面目だから、と云う事がつまりどうしようもない女になる事の因果の一つなんだろうと思う。なあに、俺も中学までは割と純粋な好青年だったのだ。それが今となっては道楽色漬けピンク色の阿呆になって、最早東京のあらゆる遊技場で奥寺富実雄と聞いていい顔をする奴はいない。それは別段俺が喧嘩が強くて恐ろしいとかそう云う訳では無くて、ひょこふらりと現れては人様の女だろうがなんだろうがおおよそ女と名の付くものは大抵を引っ掛けて行くからで要するに俺は同性からはとことん嫌われる所謂こましで、まあ別にそれを悪いとも思っていない。と云うのは今の暮らしに充足を感じているからであって、今から粛正、公明正大な人間になろうなんて云う気は全くない。雨をやり過ごして、大竹の家に向かった。といってもまだ明け方で、麻雀中毒の大竹がこんな時間に起きている筈が無いので、なんとか奴を起こしてあいつの借りているぼろ部屋に入れてもらうべく十数回程携帯を鳴らしているのだが、一向に出る気配が無い。この大竹と云う男は非常に大学生らしい奴で、滋賀から東京の大学に入り、一人暮らしを始めたのだが親からの仕送り約十数万、その金だけで生活している上、酒はやる、煙草は吸う、女好き、おまけに博徒であると云う模範的大学生、詰まる所生きている価値があるのかどうかすらわからない駄目人間なのである。俺は酒もやるし煙草も吸うし女好きであるが博徒でないと云う一点を頼みの綱にこいつとは違う。俺は百歩譲って駄目人間ではない。しいて云えばどうしようもない男ではあるかもしれないが、大竹よりは俺の方が幾分か優良な人間であると云えるだろう。そんなこんなで部屋に辿りついたが、矢張りというか当然鍵が掛かっていて、押しても引いてもうんともすんとも云わぬ。仕方ないのでチャイムを押すがそれでも音沙汰無い。しかし俺はここで諦める様な男ではない、チャイムをかの十六連打高橋名人ごたる押し続けた結果約125打目程で鍵があき、目が半開いている大竹が出てきて云った。

「何。」
「泊めてくれ。」
「いいよ。」

数時間程眠った。




昼頃に二人とも目が覚めてラーメンを食いに行く事となり、昨日あった情事について話したのだが、

「お前それは、きざだよ。」
と大竹は蔑んだ目で呟いた。
「きざかなあ。」
「きざだね。」
「でもそれくらいがいいんじゃない。」
「いや、きざって云うのは気、障、って書くんだから、気にさわるでしょう、やっぱり。」
「じゃ、お前だったらどう答えるんだよ。」
そこで俺は優子の声真似をして、大竹さんは私の知らない遊びを沢山知ってそうですよね、きゃ、なんて演技をした。
「うーん、いや、それしか無いね、残念ながら。」
「だろ。」
無言のまま麺を啜った。試しに入ってみた知らないラーメン屋だったが、とんこつラーメンと銘打っているくせに背脂の味しかしないでいやがるし、厭に店員の態度が悪くて、”二度と来ねぇよ”というアピールとして半分以上残した上にごちそうさまを云わずに店を出た。二人とも即座に煙草に火を付けた。
「不味かったな。」
「不味かったね。」
大竹のブラックデビルのバニラの香りが余計俺を憂鬱にさせた。
「でもさ、お前、優子ちゃんだっけ、そんなに遊び沢山知ってるの、本当に。」
「いや、別に。」
優子と初めて会ったのは”80年代J-POP”セッションで歌を歌った時、優子はキーボードだったのだが、下手糞ったらありゃしなかった。中森明菜の"飾りじゃないのよ涙は"をやったとき、あの曲は最初にドラムがドドドドッときてそこからイントロがキーボードで入るのだったが、優子のそこんとこの入りがなかなか上手く行かず、4回程やり直した末結局上手くいかずなあなあでもう歌に入っちまうことにした。そんな糞キーボーディストだったのけれどその後の打ち上げで何故か俺の所へ歌を褒め散らかしに来た。そこで趣味だの何だのについて語っていたらどうやら興味を持ったらしく飲みなおしませんかと誘いやがった。優子は別段可愛くないわけではない、と云うか優子というのは本名ではなくて、最近ぶっちぎりで売れているアイドルAKB48の大島優子に似ているからであって、寧ろ本名は印象に残っていなかった、まあつまり自慢になるが優子はアイドル並に可愛いのだ。だから、実はホテルを無言で立ち去ったのも、サヨウナラと云う訳ではなく、演出であって、今日の八時にまた会おうという趣旨の置手紙を残している。その事も大竹に告げると矢張り大竹は
「きざだ、気持ち悪い。」
と云って俺を蔑んだ。
「きざかなあ。」
「それぐらい自分でわかるだろ。」
「うん、まあな。」
そこからは大竹も用事があると云ったので、サヨナラして、約束時間、八時までの約五時間を、西村賢太の苦役列車でも読みながら待つことにした。





約束通りの場所に約束通りの時間、これを決して間違えず遅れずと云うのが俺の中でのルールだ、と云ったら俺の友人には"何がルールじゃ、遅刻常習犯のお前が云うな"と怒られてしまうかもしれないが、諸君、ルールとは破られるからルールなのだ。極力俺は時間通り規則通りに行動しているつもりだが、どう云うわけか時間が知らないうちに急ぎすぎて置いてけぼりを食らってしまう事が多くて、つまりこれは俺の責任と云うよりかは時間の責任であって無罪放免を許して欲しい。なんてくだらない事を云っているとただでさえ少ない友達が殊更に寄り付かなくなってしまうのでこの場を借りてお詫び申し上げたい。ごめんなさい。次からはしっかりと時間通りに向かいます。そう、次から。というのも今俺は電車の中であって、今は八時つまり約束時間丁度なのである。今回は駄目でした、次から気をつけます。なんとか馬場に着いて、ビックボックスの前に走っていく。遅れている、走っているのは苦痛でしかなかったので、歩く。が、しかし、ビックボックスまであと50mという所で走りはじめ、ビックボックスの前の優子の所へ辿りつき、如何にも遅刻を詫びるかのごとく息も切れ切れで、ごめん、と云うと優子は
「いいよ、そんな待ってないし。」
と云うたのであった。作戦成功である。ところが問題はカフェに着いた時起こったのである。
「ねえ、今日遅れた罰に、面白い遊びか、一発芸か、してよ。」
俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。そう、この女、俺にそういったものを期待していたのだ。もう一度云おう。俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。なんということだ、もう一度、もういいか。
「落語とか、好きだったよね。やってみせてよ(笑)」
確かに落語は好きだし都都逸は好きだし猥歌俳句狂言スカッシュDJ韓国アイドルの踊り物真似その他ありとあらゆるものが好きで最近は南京玉すだれにも興味を持ち始めている俺だが、これは一瞬にしてやばいと思った。カフェやぞ、カフェ。公衆の面前やぞ。しかも馬場のカフェやぞ。もしそんな事をやってしまったら、万が一このカフェの中にうちの大学の学生が一人でもいるとしたら、あの奥寺富実雄は女の子の待ち合わせに遅刻した罰としてカフェで一発芸をやってカフェを凍りつかせたんだぜなんて語り話が大学中に広まり、そうなればもう末代の恥晒し、生きていく訳にはいかないのである。なんとか話を逸らしてそんな事はさせないように努めたが、全くもってそれが上手くいくことはなかった。
決心、俺はやります、やってやります。未来に出会う息子よ、孫よ、孫の孫よ、許して下さい、俺はやります。こんな俺を許して下さい、奥寺家の駄目人間を許して下さい。俺は敢えて太宰治のとある小説からこの言葉を引用させて頂く。
「気の毒だが正義の為だ!」
俺は床に置いてある自分のバッグを掴み取りカフェの出口目指してぶるんと両腕を大きく振って矢の如く走り出たのだ。走った走った走った走った走った走った走った!今何一つ考えていないのだ俺は!ただわけのわからぬ力に引っ張られて走っているだけだ。いつもの高田馬場の風景が光のように通り過ぎて行く。嗚呼、俺は今メロスだ。メロメロメロス。今ならお前と抱擁が出来そうだ。霧雨はもう降っていない、全てが、万物全てが俺を祝福してくれているように見える!セックスより、ドラッグより、酒の酩酊より、気持ちいいものが今俺の全身を満たしている!さあ、どこだセリヌンティウス!俺を力一杯殴ってくれ!

2011年5月30日月曜日

絶えねば絶えね

梅雨というやつが、煙草を買いに行くのを二時間程渋らせている。外に出るのは面倒臭いが、雨となるとそれはもっと面倒臭い。ここ最近灰皿の代わりを務める朝日新聞社製記念マグカップの中にも、三本のラッキーストライクの残骸だけである。それを指でつまんで取り出すと手のほうぼうが灰にまみれた。それを吸って心を落ち着かせる。買い置きの梅酒は常に欠かさぬ様にしてあるので当分は問題ない。すぐに苦くなってきた煙草をマグの内側に擦り付ける。二十五時二十分、泣く子も黙る丑三つ時と云うやつである。そんな時に如何して外に出られようか。女と一緒に暮らしでもしていれば連れだって買いに行く事も出来たかもしれないがこちとら実家暮らし、女と云えどそれは己が母と婆さんだけで願い下げだ。なんてことを考えていたら先程までひた煩かった雨音がしなくなっていて、妙に静けさだけ見えている。眠れない夜だ。六月には梅雨が止んで、その頃にはつい最近まで交際していた女はオーストラリアへ留学に行くらしい。あいつの為に何か唄でもうたってやろうかと半刻程思案を巡らした結果、こんなものが出来た。

六月俺の 雨模様など 愛し貴女は露知らず



はやく、行ってしまえばいい。梅雨と一緒に。夏まであと、少しある。

2011年5月26日木曜日

傲慢のマーマレード、四

自涜に浸ると云うのは矢張り寂しいものなのか朝起きてみたら部屋中が空虚とイカの臭いでいっぱいでやっていられなくて家を出た。当分はイカを食えない。テレビの出演まではだいぶ時間がある。朝の表参道、ゴミ溜めとルビを振っても差し支えない風景だった。原宿のほうへ向かいマクドナルドへ入ると奇抜な格好をした連中がごろくにん、朝まで遊んでいたのかソファで寝ていたり携帯をいじったりしている。やたら細いデニムを履き、髪の色はまるで信号のようで見誤って車が衝突事故を起こさないか非常に不安を覚える。朝マックを頼む。コーラは朝にはきつすぎる。何を頼み間違えたかおもちゃが一個ついてくる。ボタンを押すと音を出す犬。子供はこれをもらって本物の犬に蹴りを入れて音を出すのだろうか、即効廃止されたし。何がハッピーセットか。犬は大迷惑だ。犬と云うのは総じて迷惑をこうむる機会が多い気がする。携帯のCMでしゃべらされ、帰らぬ主人を待ちぼうけ、おまけにアメリカ映画に出演するも大概はさかりのついた行為の撮影ばかり。悲しきかな犬。ああ無常。無常と云えば好きな人ばかりが死んでいく。そう思うのは嫌いな人、どうでもいい人の生き死にに関する興味が無いからなのだろうか。そんな事を思いながら食べるマックグリドルは甘くなかった。どうやら甘い奴と甘くない奴を勘違い、頼み間違えた。チェンジ!叫んでみたのは心の中の斉藤さん。斉藤さんと右京さんは10分程パンケーキにアイスを載せるか載せないかで口喧嘩取っ組み合いの末混ざって最強さんになった。アドレナリンがどくどく、エフェドリンがどくどく。一度街を歩いていた時に薬のバイヤーというのに声をかけられた事があって、そいつが売っていたのは、合法だけどまるでエフェドリンが分泌されるかのようにハイテンション、その名もエセドリンと云うやつで、使ってみたら確かに似非物に間違いなかった。右は左で左が上だったし、そもそも青が赤に見えた時点でエフェドリンとはまた違ったものなのだろう。世界の帝王は俺だ!と思って気がついた頃には何故かアフリカの原住民の族長になっていた時があって、あの時は日本まで帰るのに数ヶ月を要し、テレビ番組に大きな穴を開けてしまったが、フレンチが変わりをやっていてくれたらしい。喜ばしい事だ、そういう浅知恵だけはある。タクシーを拾ってテレビ局へ向かう。穴を開けないために。

2011年5月17日火曜日

傲慢のマーマレード、三

 そこから宛てなく歩いて行くと、街には料理屋その他水商売の店なんてものは最近は野良猫より多くなって、その癖に、たまたまどこに入ってみたら美味いとか、あそこはたまたま美味しかったなんて店はどんどん少なくなり、雑誌で紹介されるものが全て、天国は観光しつくされた。うまくない店はまずいのだ。昔特有の行き当たりばったりのグルメの俺としてはなんとも納得行かないが、最近はその風潮に日和ったのかもしれない所があって、というのが高田馬場には俺が「次々とラーメン屋が変わっていくストリート」と命名しているとある通りがあって、そこには約八つ程のラーメン店が約半年のサイクルで立っては消え立っては消え、不味い店が無くなりまたそこに不味い店が出来て新しく美味い店が出来るまでは物件がどんどん変わっていく。ところが、その変わっていく店達に挑戦もせずに俺はまるでジグソウ、SAWだったかな、あれみたいでいやらしくて。行ってみて不味かったら店長ぶちのめして店じゅうしっちゃかめっちゃかにして帰るとかどうだい、たのしそうじゃないか。どうせなら内田裕也とか、らもとかさ、そういう風に生きたいよなあ。ロック。ロック。ワッツロック。料理研究家は?ロックか知らん?どちらかと云うと日々下らない問題に四苦八苦しているばかりで一向にその中間に行ってくれない。

そんなことを考えながら結局足はいつもの店に向かい、ドアを開ければ馴染のマスター、そして、以前朝の、いや昼頃の料理教室的番組で一緒に出たことのある美少女女優の水歯螺斗希湖ちゃんがいて、一緒に飲みますかと云う事になったので店の隅に隠れてちびちびと飲んでいた。斗希湖ちゃんは二三杯飲んだくらいで酔っ払い始めたので、となりに座らせ、キスをせがみ、事実キスをした。舌を絡める事が気持ちを絡める事に直結するならして欲しいと思ったが、如何せん女の子の心と体は別モノらしい。そこからちょっと時間があったので路地裏へ行き猥雑な行為に及ぼうとしたが、「彼氏がいるからダメ」拒まれた。女の子特有の酔っ払っている時はいいものの後で後悔するという奴で、あとで彼氏に泣き付いたらしく、次の日に彼氏に尋問されにいかねばならぬと云うことになった。話のねたにもなるしと云う事で会いに行ったが、さすが女優水歯螺斗希湖のボーイフレンド、美男子極まりなくて、惚れ惚れしながら見ていたが、どうやら僕の記憶が曖昧な部分と斗希湖ちゃんの供述に違いがあるらしく、そこの違いに彼氏くんは苛苛したようで、左手で服を捕まれスチール缶でおもいっきし殴られた。血が朝顔の露のごとく流れて綺麗で、小さい高揚が生まれたのを心の中に覚えながら、土下座をしろと云われたので土下座をしたら、彼氏君は案外傷を心配してくれて僕の傷の手当をしてくれた上多少のパシリをしてくれて、逆にこっちが引いてしまうくらいだった。殴って謝るくらいなら殴らなきゃいいのに。酔った勢いで猥雑未遂と激昂した勢いで傷害はどっちが悪いのだろう、どっちも駄目だ、不良でない人間があるだろうか、人類皆仲間さ、衝動赴くままにどつきあいながら抱擁する犬達なんだぜ。出たい時に手は出てしまう。で、誰が俺を責める事が出来るだろうか。誰が被害者だろうか。斗希湖ちゃんだけだよ、阿呆。

手当てをしてもらった後俺は帽子を買い、頭の傷を隠して夕方、繁華街を歩いたが、次第に殴られた時に生まれた高揚が爆発、大炎上を起こし、歌ったり踊ったりしながら街をほっつき歩いたので、この俺偉大なる料理研究家大河内芳乃がラリってるのではないかと掲示板に書かれても否定は出来ない。ちなみに何を歌ったかといいますと、手のひらを太陽にを替え歌して「ぼくらはみんなー生きているー、生きているからうれしんだー、後頭部缶でどつかれ 土下座をすれば 真っ赤に流れる ぼくの ち・し・お。」ってなかんじでやっておりました。こんな俺にも人様と同じ赤の血が!赤黒く頬を伝い痛みを感じ、その痛みこそが今の俺を掌る全てであるに違いなかった。いてえよ、いってえよ!これが幸せ!ラッキー!日常の世界からやってきた非日常よ!全ての人間はその他どうでもいい末節に毟られ、どつかれ、放り捨てられ、大したでもない悲しみと苦しみに喚き散らかすが俺は違う。今ならドラアグクイーンとですらセックス出来そうな気分。人生の最大幸福とは痛み、と云う程ではないが、俺を支配している三大快楽のうち最後のひとつは痛みである事を悟ったのだった。そう、丁度高校時代に内向的なクラスメイトが書いていた論文のテーマが、俺の全てなのかもしれないなと思った、『エロスとタナトス』それは相反しない。サディズムとマゾヒズムがそうでないようにそれもそうでないのだ。相反するといわれる物を同時に支配する、及び同時に支配される思い上がりだった。なんとなく、セックスフレンドを呼ぶ気にならず、自涜に浸ったのだった。

2011年5月2日月曜日

傲慢のマーマレード、二

 その日はいつも行っている「とんちき」という居酒屋で散々騒いだ。青島が焼き鳥を頼み、と云うのはこいつは野菜が全く駄目で、フレンチがサラダを頼み、と云うのは北川も北川でベジタリアンという、まあよくもそれでグルメと呼ばれると感心するが、フレンチはベジタリアンの癖に肉料理はしっかり作れるから吃驚する。味見をしないで一流のレストランにだせるようなものが作れるのかどうか甚だ疑問だが、確かに北川の店はかなり繁盛していて、実際にどんなもんだと行ってみたことがあって、まずけりゃいちゃもんの一つでもつけてびた一文払わずにかえるつもりだったが結局を云うと、きっちり代金を払って帰ることとなった。そして何が腹が立つかと云うと、あいつがキムチの食品会社といわゆる”コラボ”してオリジナルのキムチを販売していたり、水曜日のおやつ時に主婦と子供向け10分番組「キムチーマン」というヒーローモノ特撮の監修をやっていて、その内容と云うのが全国各所の専業主婦達が愛する家族のために献立を何にするか困窮している時「助けてキムチーマン!」と呼ぶとキムチーマンが光の様にやってきて、キムチを使ったレシピを何点か教えてくれるという内容だ。彼は奥様を麻酔銃で眠らせて、そのあいだにちゃちゃっと調理してしまう(スポンサー的にはそれぐらい簡単に美味しく作れると云いたいらしい)のだが、だいたい話の落ちるところというのが、キムチーマンが奥様がその日用意していた献立を全てキムチ味にしてしまうので、奥様が眠りから覚めてふたを開けると

「わあ!豚キムチだあ!これは…キムチ味噌汁だねえ!うわあ、これも・・・キムチ納豆・・・・・・キムチご飯?」

となって非常に困った奥様を尻目にキムチーマンが帰っていくというラストとなる。タイトルが毎回有名映画のパロディとなっているのは北川の趣味らしく、いい意味でも悪い意味でも印象に残ったタイトルをいくつか挙げさせて頂くと、「フライド・グリーン・キムチ」「シュガーなキムチ」「時計仕掛けのキムチ」。そして毎回何故か調理中に流れる映像が非常にレベルの高い殺陣である為に、一部のヒーローオタクと云うか、特撮オタクには根強い人気を誇っていて、キムチーマンのキャラクターグッズは何故かいつも完売で、今度映画化もされるらしいのだが、もともと10分しかない番組をどうやって映画化するのか非常に気をもむ。俺はどうにもその人気を理解出来ないのだが、と云うのもキムチーマンのデザインが、ゴレンジャーのようなスーツを纏った上に頭部がスーパーで売られているキムチ(それもちゃんと北川とコラボした商品のパッケージで)のあの、プラスチックの四角い箱のようなものを被せただけという見るからにお粗末な代物だからだ。あれが所謂”ださ格好いい”のだとしたらまったくいよいよ意味がわからない。という旨を北川に伝えたところ、あの、キムチーマンが全ての食材にキムチを入れてしまうというのは、遠まわしに韓国の事を馬鹿にした表現なのだと云う。てまえどもはキムチの味を生かしきれていないという反骨精神らしい。ただ、以前『キムチーマン』の番組の中でキムチの正しい発音が”KIMUCHI”ではなくて”KIMCHI”であるということを冗談交じりに放送した所、韓国からキムチの出荷を止めるぞとのお怒りを受けた事があるらしく、それ以降韓国嘲笑は程々にしているのだそうだ。
すると、砂じりばかりをただひたすらに食していた青島がおもむろに口を開き
「キムチは食いもんじゃねえ。」
と言い出して、機嫌の良かった北川の笑顔を少し引きつらせた。
「まあ、おふざけはこれくらいにして、傲慢のマーマレード、これをどうやって探し出すのか。三人寄れば文殊様の知恵ってやつだ。」
北川がさっきのお返しと云わんばかりに本当に存在するのかとか、誰から聞いたとか尋問している。青島も、わからない、いえないと押し問答の繰り返しをしている。
「どうせ一人で行かないと入れてくれないのだろ、その、規則だか、ルールだか、それが遵守されているのだとしたらさ。」
そう云って店を出た。手当たり次第にどこかで酔い潰れて帰ろう、今日は、いや、明日も明後日も、ずっと。

2011年4月23日土曜日

傲慢のマーマレード、一

傲慢のマーマレード 



~すべてのことが可能だと思っている年頃は高慢で不遜であるほうが似つかわしい~

塩野七生 「男たちへ」より抜粋



一.

アイラブ、先進国。アイアム、先進国人。日本という国は素晴らしい。おおよそ全ての国籍の料理が食える国、日本。しかもその殆どは首都である東京に集まっていて、お偉い様が調べた所によるとなんと192カ国ものの外国籍のレストランが、2万742軒もひしめき合っているというから、たぶん俺達が渋谷の街を歩く時美男美女とすれ違うくらいの確立でそれらがある感じではないのだろうか。美男美女とはそんなに多いのか、不細工で悪かったなと憤慨立腹する御仁もいるのかも知れないが、事実美男美女には様々な系統趣味が存在して、イケメンといっても多種多様である訳だし、あいつはソース顔だとか、醤油顔だとか、最近だと塩顔なんてものもあるらしい。腐ってもグルメ評論家である俺は、担当しているラジオ番組で、醤油顔といってしまったら木村拓哉も板尾創路もおんなじジャンルだよね、と云ったのだが、何故だかそれぞれのファンから苦情が来て番組スタッフには大層な迷惑をかけた。俺は現在”大河内芳乃”という名前でグルメ評論家をしていて、テレビ、雑誌、ラジオ等にちょこちょこ出させて頂いている。そもそも俺はちょっと名の知れたレストランのオーナーであり、と云う事はつまりしっかりと料理の専門学校に行き店に弟子入りをし鍛錬に鍛錬を重ね切磋琢磨してきたと云う過程が存在することを意味する。レストランのオーナーをやっているだけでも、ひとり身の俺にとっては充分過ぎる程の金が入ってくるのだが、マスコミ系の仕事と云うのは、テレビ番組では目の前に出されたファミレスの泥団子のようなハンバーグを食って、うまいうまい、これは素材がどうで味付けがどうでということを、如何にも専門家らしく朗々と語っていれば金が貰える。雑誌なんて質問に答えるだけだ、食に対する意識がどうとか、美味しければそれでいいと思う。ラジオは少しやっかいで、主婦から寄せられる質問疑問が非常に抽象的で、例えば”てんぷらがうまく揚がりません、どうしたらお店のような美味しいてんぷらが作れますか”なんて聞かれてしまった時には

「今から料理専門の戸を叩き血と汗滲む努力をしていただいてそれからどこぞこの懐石料理店に弟子入りすべきですね、大体てんぷらの揚げをやらせてもらえるまでは10年かかります、それまでにしっかりと師匠の作業を目で覚え耳で覚え、師匠の技を体得してゆくのです。」

とは云えないので、油の温度を高くして、それから、なんて事を云ってお茶を濁している。そんなこんなで稼いでいった金は、同じくグルメ評論家だったり一般人でもグルメとして名を馳せている二人との酒飲みに総て消えていく。確かに、俺達三人は名の通った”グルメ”らしいが、云ってしまえば普通の人間であるわけで、普通のレストランやチェーン店でも入ったからには別に文句を云わないし、酒が入っていればだいたい料理の味は関係ない、酔ってる時は濃けりゃ何でも、まあ、美味いんだ。以前皆でキャバクラに行った時、俺は腹が減ったのでスパゲッティを頼んで、何も云わずにずるずるとむさぼり食っていたら、頼んでもいないし料金も変わっていないのに女の子が一人増えて店を出てから三人大笑いした事がある。調理人が凄まじく引け目を感じたのだろう。確かにまあ、印象に残る味ではなかったけど、別にそんな不味いわけでもなかったのになあ、味も濃かった。そんな俺達でも、矢張りグルメ評論家と銘打っているだけあって、極上に美味い店や、珍しい料理というのがあると電光石火、誰かが聞きつけてその、本当に知られていない謎の店、謎の料理を手分け草分けして必死に探すのだ。前回は創作エジプト&ジャパニーズ料理”二つの国”と云う、調理人だかオーナーだかの意図がわからない店だったが千駄ヶ谷の看板も立っていない地下に長く降りる階段の下にピラミッドらしきものが書かれた扉があって、あの時は確か青島が見つけた。看板も出さずに常連身内だけを呼んでひっそりやっているマニアックな店を見つけるのは、たいてい青島で、多分一般人グルメと俺達銀の園のグルメとの違いはそういった嗅覚が後者には存在していないのだろうと思う。さて、今回話を持ってきたのはその青島で、青島が云うに、千葉県のどこかに隠れた名店、というかまたそういうマニアックな店があって、そこの名物というのが”傲慢のマーマレード”だと云うのだ。
「簡単に云っちまえばジャムじゃないか、パンのほうを名物にした方が良かったんじゃないのかな、傲慢のパン、うちじゃないか、はは」
フレンチをやっている北川の店はあの、コースに出てくるパンが美味いことが有名で、こんな感じにパンの事ばかり自慢しているので、俺はそれはちょっと違うんじゃないか知らんと思う。メインの腕をしっかり上げろよ。まあ僕の店も最近前菜が美味しくないと云われているので近い内に味を確かめなければならん。青島が自慢をよそに口を開く。
「それがさ、どうも今回のは燕の生んだ子安貝を手に入れるってくらい、無理難題なんだよ、この店を見つけるのは、傲慢のマーマレードを拝むのは。どうもおかしい。一度バーで飲んだ事のある奴がこの名前を口にしたんだ。その店のルールは三つ。一、店の名前を云ってはならない。二、友人を連れてきてはいけない。この店で友人になった人とは一緒に来てもよい。三、傲慢のマーマレードという言葉以外の情報を知らざるに教えない。」
微妙に一と三の内容が被っている気がしてならないが、こんなことを気にしていると偏屈になってしまうからやめておく。成程、じゃあ俺達が探したとしても、三人がそれぞれ見つけないといけないってわけだな。しかし、言葉以外の情報を口にしてはならないっていうのは、アレだね、その、きっとジャム系の食べ物でなくて、それに見立てた何かかな。オレンジ色の液状であろうことは脳裏に浮かんでいるし、味もだいたい想像がつく。つまり疑問とするところは、”傲慢”。”傲慢のマーマレード”、もう、俺は、七つの大罪にも値する”傲慢”!背徳溢れるであろうその妙味、想像でしかないそれを、口の中で噛み締めていた。


つづく

2011年4月21日木曜日

備忘録 kyoko

kyoko 何か聞こえる
kyoko 外は雨かい
kyoko 誰か立ってる
kyoko 外は雨かい

通りでは腹を空かせたタクシーが
俺の小鳥を咥えて逃げる

ショウウィンドウに写る顔は愚かで暗い
右手の罪を左手が贖う
いつも いつまでも


kyoko 何か聞こえる
kyoko 外は雨かい
kyoko 誰か立ってる 
kyoko 外は雨かい

とどまることも生き急ぐ事も
疑う事も張り裂ける事も
今夜はいい 窓から放り出せ
明日の岸にたどり着くために
今夜は眠ろうぜ

kyoko 何か聞こえる
kyoko 外は雨かい
kyoko 誰か立ってる 
kyoko 外は雨かい

kyoko 何か聞こえる
kyoko 外は雨かい
kyoko 誰か立ってる 
kyoko 外は雨かい


kyoko 外は雨かい
kyoko 外は雨かい


さびG D
さびおわりC D G
BメロC D G E


非常事態

昨日の夜、母が祖母の家からウイスキーを3本程拝借してきたのだが、それを飲んだ。非常に高級で口当たりの良い酒だった。祖母は現在、母の姉二人のうちの真ん中の細江さんと二人で暮らしていて、自営業の工場をたたんでアパートにしてしまってからは一番上の姉の飲食店を手伝っているのだが、それが終わってから毎夜毎夜缶チューハイや缶ビールを開けては飲む、なかなかの酒好きである。と云うより仕事上がりのそれをたのしみにしているのだろうとは思うが、祖母と細江さんの御両かたともにウイスキーは飲まないのだ。それなのに何故そんな家にウイスキーがあるのかというと、祖母の夫、つまり僕の祖父にあたるが、その人がウイスキーが大好きで、亡くなられてからずっとそれをとっておいたのだという。ただでウイスキーが飲めるというのは僕にとってラッキーハッピー以外の何者でもないのだが、実は祖父が亡くなったのは僕が三歳かそこらの話であり、十六年も前の事である。仮にそれが山崎の十八年物だとしたら、三十四年と名前を訂正するべきである。ちなみに調べてみると酒の種類はオーシャングロリア。20年以上前の作品のようで、古い味がしたが、アマレットで割ってみたところ美味しくいただけた。ウイスキーとアマレットで割るとゴットファーザーというカクテルになる、これは「おまえ、これ以上強い酒があるか、こいつはカクテル界のゴッドファーザー、最強ったらありゃしねえよ」みたいなセンスでつけられた名前で、あの懐かしきテーマソングが耳から聞こえてくるようである。
こうやって酒を飲んだり、また最近は親戚からからすみを送って頂いたりして、美味いものや美味い酒があって酒池肉林、いや、酒湖肉森を楽しんでいたのだが、ふと鏡を見るとでぶがいた。ははあ、雲外鏡、だまそうったってそうはいかんよ、洗面台に向かい鏡を開ける、矢張りでぶがいる。まずい、これはまずい。太った。顔が太った。雲外鏡のせいにしてお詫び申し上げないといけないが、こんな顔でお詫びにいったら、雲外先生に、きさま、おれの顔を小馬鹿にしてそんな顔をしおって、くそぶっ殺してやる、とか云われかねない、まさに背水の陣。美しくなければ生きている意味がないと動く城の主も申していたように、生きるか死ぬか、それが問題だ。友人に相談すると、あはは、人間は外見がアレでも内面が美しければいいんだよと軽々しく云われたが、僕というのは厭世今生、自堕落不貞な人間で、外見はそこそこ美しいのを良いことに内面がアレなのを誤魔化してきたのだ。更に僕はこの春新しくバンドを組むのだが僕はボーカルで、人に迷惑を掛けるようなロックなんてものをやるので、ステージ上で「お前らみんなくたばっちまえ」とか「人間嫌い!いやだ!くそ!」なんてことを云おうとしている奴が(ちなみにバンドをやる理由はストレス発散)肥満この上ないとしたら観客に引きずり降ろされ市中引き回しの上晒し首になる事くらい俺でもわかる。明日てんきになあれ、なんて云うてる阿呆達は、晴れ、雨、くもり、どちらでもいいのかもしれないけれど、嗚呼、俺にとっては生きるか死ぬか、それとも痩せるかだ。
しかし地震と云うのが起こると普通に生きてる人たちも、やれパンクだ俺は30代くらいで死ぬんじゃとか云うてる人間達がどれ程生に執着しているかわかる。俺は地震や津波なんかでおっチンじまいたくない、死に様を選びたい、とか、そういうことを云うのだったら、車の前に飛び出していって「僕は死にませーん」とでもやっていればいい。それこそニュースになったであろう、六人の轢かれた赤ん坊共の為に命を交換してやったら宜しいのだ。僕がそう云うと自殺志願者のパンクスどもはいっせいに道路に飛び出し、やがて道路一面パンクスのかけらだらけとなって、子供達は息を吹き返したのだった。子供達は「パンク侍どもよ、きさまらの命しかと戴いた」とか云って葬式の途中で突如彼らは蘇りなんとこうわめいた!
「ファーストギグだ!てめえら、覚悟しな!」
慌てふためいた親族達が逃げる間もなく、ドラム担当らしい幼児は木魚でリズムを刻み始め、ベースは荒くれた音で響きはじめ、ギターはちゃらちゃらとパワーコードを鳴らし始めた。残った二人はおもむろにポケットからサングラスを取り出し髪の毛をすばやくポマードでリーゼントに変えた。二人は踊り出して、後ろの演奏が盛り上がり、急に音が止まる。沈黙が走る。沈黙を破るのはもちろんボーカルのリーゼント幼児、口を開いて出た言葉とは。
「また人間に生まれてきちまった。キャベツになりたかったなあ」

2011年4月20日水曜日

沖縄にいこう

地震がめったに来ない
宮城から一番遠い 沖縄へいこう
沖縄には原発もないし
ほうれんそうも食える 沖縄に住もう

さんごも フルーツもあるし
日本でいちばんきれいな県 沖縄へいこう
困るのは 台風と メリケンの基地くらい
めんそーれうちなー 沖縄に住もう


みんなで 沖縄にいこう
みんなで 沖縄に住もう
みんなで 沖縄にいこう
みんなで 沖縄に住もう

あいや いやささ あいやっ やっ やっ
あいや いやささ あいやっ やっ やっ












基地も原発も必要無くても僕たち幸せに暮らせますよー、今日は隣の奥さんから大根貰ろた、ラッキー、今日は大根の味噌汁にしようか知らん、おかえしにろうそく多めにあるからろうそくあげよか、原発無うなったから明かりがろうそくになったでしょ、あ、土曜日は町内みんな集めて湯豆腐やりましょうか、ポン酢以外は認めんぞ、こら、みたいな世界だったらいいなとは思いますけどね。




2011年4月18日月曜日

I hate Rock 'n' Roll

踊り回って舌出して
俳優気取ってつかまれて
動かされては言わされる
チェルシーはママのおっぱいの味ってな!

僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール

がなればだれれば得意になって
われてしまえばそれまでさ
あんたはもう古すぎる
さっさと消えろ糞ったれ

僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール


世界に数多の音楽あれど
ロックンロールはよう好かん


一重を二重に塗りつけて
化粧で女のふりをする
蜜いでもらって得をする
女好きのあほやないかお前ら

僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール

昔は本当のSTARだった
金にまみれて変わっちまった
今じゃ偽りだらけのFAKESTAR
星と王冠を空に捨てろ、くそ!

僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール
僕の嫌いなロックンロール

世界に数多の音楽あれど
ロックンロールはちと違う
ロックンロールは音楽じゃねぇ
なんかこうもっとうちから来るもんじゃ!ぼけ!


I hate Rock 'n' Roll !

遊楽

この所遊んでばかりいる、非常に宜しくない。遊ぶ時には必ず外へ出て、そうすると本は読まなくなるし、遊ぶというのは必ず酒を飲むので、金は減るしで、それが僕が遊ぶのを宜しく無いとする理由である。遊ぶのであれば、読みたい本が死ぬほどあるのでそちらをまず読破してからにしておきたい。岡倉天心の”茶の本”は6章最後の章を未だに読みきっていないし、藤野に借りた桜庭一樹の”砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない”なんて三ページしか読んでいない。三ページといったら、フランス料理で云えば前菜どころか、メニューの説明すらされていない状態に近しい。とかく冒頭だけしか読んでいなくて、でもそれでこいつはおもろい文章を書くな、と思ったから早いところ読んでしまいたい。こいつは桜庭一樹という名前をしているが女なんだよな、確か。女性が書く文章というのはまた男性とは違う退廃があるからおもろい。知らない人が書く新しい本というのは新しい出会いで、全く、だから、人と知り合うというのはおもろい。藤野に出会わなければ、知り合わなければ、桜庭一樹に出会うことも無かっただろうし、最近だと安部に会ったのは僕にとって大きなプラス、というか、今後千葉県で酒をあおる時は今よりずっとたのしくなるだろう。安部というのは近頃五十君が主催している恋活という如何にも胡散臭いイベントで知り置いた男で、千葉のバーで働いていると云うので場所を聞いたら市川だった。僕の地元の二駅くらい先だ。この前もうちに来て酒を飲みながら文学や音楽の話をひたすらした。こういうのがたのしくて人と出会うのだけれど、そうするとまた遊ぶ予定が増えてしまうから困ったものだ。最近酒に金を使いたくない、別に酒を飲みたくない訳では無くて、酒は何時でも何処でも飲みたいのだけれど、というのも飯に金を使いたくなってきたからで、また豚組のとんかつとか、ハイチカレー、ハイチコーヒーとか、焼肉とか焼き鳥とかを食べに行きたいからである。焼き鳥に関しては25日に糞女どもと中野でそれを食べる事になっているし、今まで一度も酒、飯すら食ったことのない後輩と今月中に行くことになっているので僕は非常にたのしみである。焼肉も行きたいな、僕はあの、たんすじというものが非常に好きで、普通のカルビとかそういう普通の肉はそこそこにたんすじを三皿程平らげるから同行者に偏食者を見る目つきで見られるが、以前申し上げたことのあるように僕は嫌いなもの等ほとんどない。これは食べ物に限らず、人というのも大抵の人が好きだし、酔っ払っていない限り誰かに対して憤怒、深夜の公園で立ち上がり顔を殴るということはしない。そうだ、飯も食ったし、これからは真面目に生きよう。酒も飲まず煙草も吸わずどうでもいいような女とのセックスを控え勉学に励み、毎日筋トレをして丈夫で健全に生きる。無理か。死んでお詫び申し上げたい。

嫌いではないけど

 僕は案外偏食でなくて、ピーマンさんでもにんじんさんでもなんでも食べられる。案外、と云うのは周りから言われるからそう云っているわけで、食わず嫌いもないし、食べたくないと思うのは下手食い奇食悪食ぐらいであって、何であろうと大抵の物はオッケー、日の丸である。男子というのは野菜が嫌いであるようなイメージが世間一般に知れ渡っているが、僕は大の野菜好きで温野菜といって鍋で野菜を蒸してマヨネーズやおポン酢をつけて食べるのが好きで、これが野菜本来の味を抜群に引き出してくれてなかなかいい。この温野菜に肩を並べるのがバーニャカウダーという料理で、アンチョビ、ニンニク、オリーブオイル等を混ぜ合わせたソースを熱したところに野菜を浸して食べる云わばフォンデュのような食べ物で、以前お付き合いしていた女性が僕の誕生日にイタリアンレストランカフェなる所に連れていってくれてそこで初めてこの料理を知った。いつか自分で作ってみようと思う。
と、僕の野菜好きを熱弁してみた所で何も始まらない、近頃女子供アマングヤングピーポーが云う”草食系男子”というカテゴリーは別段野菜を食べるからそう云うのではないし、そもそも僕は野菜は食べるが女性との付き合い惚れた腫れたに関しては驚く程がっついた所があって早稲田の石田純一と呼ばれてしまうのもそう遠くない未来である。靴下を今の内に脱いでおこかな。靴下は今まで存在していた表面をすっぽりと殺し、人格が変わったようになって飛んでいった、いきなり明朗快活、靴下の癖に。なんとなく窓を閉めると空気が変わってしまったみたいで不快。酒が飲みたいような飲みたくないような自分がよくわからない。毎日飲んでいる。別に酒を飲まなくてもいいのだけれど、飲んでもいいかという気持ち。己の中にもうひとつ人格があってぺろっと裏返すと変わってしまうような、そんな軽薄単純な人間です、僕は。屈した人間。そうか、僕は奴隷だった。毎日毎日朝の八時に起こされ鞭で叩かれて飯もろくに食わされず、隅田川の川原に三兆個に一個落ちていると云われる伝説の石「南無亞石」を探す作業をさせられている。僕はもうこんな巫山戯た事はやってられない、誰か、いないのか、連れ出してくれ、石を叩いて水を湧かし、宙を扇いで海を裂く、救いの手は差し伸べられないのかなあ、なんてことを考えていたらそこには一人の美少女がいて彼方という名前だという。魅せられるまま、惹かれるままについていったら喧騒な都会の町、ぬらぬらと犇めきあい、憎み、騙し、嘯き、殺し、悲嘆し、という見ているだけで悲しくなる人という生き物が億いる異世界へとついて来てしまった。ここで奴隷から抜け出した僕はもう働く必要はありませんが、やっとの思いで学校へ行き、人というもののやり切れなさを悲嘆しながら酒を飲んでいるわけで御座いますが、この世界の酒というのも女というのも中々の出来栄えで当面の間この世界から離れる心算は無いのです。

2011年4月15日金曜日

茅ヶ崎の海女

友人の紹介文をふざけて書いた。




茅ヶ崎の女ほど怖い女はいない。
そもそも茅ヶ崎というのは世間一般的には夏の海が盛んにメディアでは取り上げられているが、長い間語り継がれている「海女」の傳説はその波に飲まれて姿を滅多に現さない。滅多に、というのはやはり数年に一度海女を目撃したという人間が現れるからで、大抵そういった場合は頓狂な事を云っている気の狂った人間として片付けられてしまうのだが、数人の学生グループでその傳説を確かめようとするものらがいて、後者が海女を目撃してしまうと、一度火がついてしまった噂はとどまる事を知らずに駆け抜けて伝わっていってしまうので、海の家の関係者どもは頭をうならせているのであった。というのも彼らはその怪奇の分けを知っているのである。昔ある女が、茅ヶ崎の海で男に遊ばれて、子供が出来てしまい、子供を連れて男の元へ向かうと、その男というのが絵に描いたような糞男で、もう次の女と暮らしていたのだった。悲嘆した女は茅ヶ崎の海へ、子供を連れて厭世心中したのである。大体目撃した人間が話すには子供を抱いた女が海の浅いところに立っているというので、矢張り彼女に違いないとして、供養を行う事にして、お寺さんの坊主を呼んだ。坊主が草木も眠る丑三つ時に海へと向かうと、そこには女が矢張り、子供を抱いて立っていた。


「どうしてそんな所へ立っているのかね、君」
坊主が恐る恐る話しかけると、女は手を坊主のほうへ向けた。子供がいた。
そうだ、この女は子供を育てて欲しいのだ。なんだ、死なずに自分で育てれば良かったではないか、全く、女というのはこれだから理解が出来ない、と坊主は呆れながらに子供を預かると、女はすっと消えていった。その赤ん坊が成長すると、髪の毛が見る見るうちに長くなり、その出でたちまるで海に生える藻草のようであった為に、

な も
海 藻 と名づけられたのであった。
なもは、母の悲しみをなにとも云われぬ何かから、おそらくそれは海であろうが、感じ取り、全ての男に復讐を果たす為に、生きるのであった。 数々の男に抱かれ、夜伽が終わるとその長い髪の毛を男の体に巻き付かせて、締め付けて、殺す。死体は深夜、茅ヶ崎の砂浜で焼いていたので、不審に思った近隣住民が通報し、事件は発覚した。海女騒動が無くなったかわりに、殺人事件なんて起きてしまったら海の家なんてのはたまらない、貧乏生活を強いられ、あげくの果てには飯が食えなくなってしまう。原因はわかっている、あの女の子供だ。そもそも海女の子供なんて受け取った坊主が悪い。俺達は俺達がわからないものは嫌う!今こそあの女を殺すのだ、このままじゃ茅ヶ崎は滅茶苦茶、奴が死ぬまで安心できない!茅ヶ崎の住民達はその手におのおのの武器を持ちなもを殺しに彼女の家に向かう。寺の坊主がそれを必死にとめるが、少しもしないうちに払いのけられる。ドアを開ける。彼女がいる。髪の毛は部屋に収まりきらない程伸び、不気味な黒光りを放つ。このなんだかわからない悪鬼を倒さねば、茅ヶ崎に未来なぞないのだ。襲い掛かろうとしたその瞬間、なもは消えた。部屋中が暗かったのは髪の毛であり、全く明るくなってしまった部屋の中に、男が一人、おそらく最後の犠牲者であろう男が倒れていた。なもの、凛々しい鼻と、大きな目が思い出されるくらい、その男の鼻と目はなもに似ていたからだ。

2011年4月14日木曜日

誰かと誰かが
いてこその僕
いつでも抱腹絶倒
自虐的思考で
ねぎと肉をえりわける

だいたいいつもする事がない
だいたいいつもする事がない
だいたいいつもする事がない
だいたいいつも

狙わずして 嫌われる
鏡には 美男子
だけども四面楚歌
幼児退行
ねぎと肉をえりわける

だいたいいつもする事がない
だいたいいつもする事がない
だいたいいつもする事がない
だいたいいつもする人がいない

世界でいつもまんまるな点。
世界でいつもまんまるな点。
世界でいつもまんまるな点。
世界でいつもまんまるな点。

2011年4月12日火曜日

なんか飼いたい

 書店で猫の本を買った。猫の本と云うても、別段『ハウツー飼育、猫、初級、三毛猫編』とかいった実際に猫を飼う方向で話を進めていく本ではなくて、猫の持ち主が撮った写真を載せて「どうだ、俺の猫は可愛いだろう、見ろよ、飼えよ、ついでといってはこの本も買えよ」という自己顕示欲甚だしいやつで、ただそれでは本として活版印刷しそれに値打ちを付けて全国書店で売りさばくという民主主義的商売が成り立たぬので、その穴を埋めんとして「どうだ、これならお前らが金出して買ってもええかなと思えるようにしてやったぞ、どうや。」とでも云うように余すところ無くエッセイが詰められている。この本を呼んでいるとまるでちょうどその紙面あたりに作者のどや顔が見えてくるようで肝も沸き立つ程腹が立ってくる、くそ。それ程怒りを掻き立てる物を何故金出して買ったかというと、実を云うと別に怒っているわけではなくて自分がそいつのその本が読みたいからその本を購入したわけで、僕は単純に猫が好きで、飼えるものならたとい蟹工船で沖売りの女や北海道弁の年齢もわからぬ様なおっさん達と汗水血しぶき鼻水と目水とわからんようなものを飛ばして齷齪働いてそれでも二束三文、そこから生活費も出さねばならぬと、そんな金を稼がなければならないと言うことになったとしてもそれに殉ずる事ができると思う。こんな大口を叩けるのにも分けがあって、僕はどうしても猫を自宅に招き入れる事が出来ないのである。招かれぬ猫。下らん事を云っていると恥ずかしくて、今日の気分で云えば僕はクラブに行ってDJなる音楽を次々と回していくやつをやり、そこで南京玉簾でも流して一緒に踊りたい気分になるが、今現在書かなければならない胸裏心持ちがいくつかあるので、いまのところ控えさせて頂こかな。何の話だ、嗚呼、猫が飼えない理由というのは、簡潔に、アレルギー。僕は猫が大好きなのは先ほど記した通りだが、僕の体が猫を受け付けないのである。先天性猫嫌い。猫に関す同一性障害、腹立つ。これこそ肝が煮えくり返る事項である。しいては己身体市中引き回しの上晒し首としてやりたいところだが如何せん、今年頂いた年賀状に「何卒お体ご自愛下さい」と書かれていたのでどうすることも出来ない。
 犬は、と聞かれるのだがアレルギーは無い代わりに、僕は犬というものに対して愛情どころか、どこかへ行ってしまえ、畏怖軽侮の念しか持っておらず、というのは単純に云えば怖いわけで、なんだってあんなに激しく動き回ってきゃんきゃん云うのが可愛いだとかあいくるしいだとかいってちやほやされるのか皆目検討も付かない。そもそも諸君は街できゃんきゃんやっている髪を末期色にした女子高生や男子高生、おっさんおばさんにはまるで黒板引っかいてその上アルミホイル食わされたような顔をして耳を塞いで「けっ、うるせえんだよあほ」とか云う癖に対して変わらんあいつらにはまるで人が変わったように愛想を振りまくんだ?それに加えてあの犬というのは、まるでどんきーもんきーやんきーのような非常に強い攻撃性を持っていて、人と見れば足元を見て因縁をつけるかのように「あぁ?ワレ何俺様の通る道にのそっと突っ立っとるんじゃ、はよどかんかい、コラ、はよどかんかい!」と云ってぎゃんぎゃん喚く。そうしておソロしくて僕がどいたにも関わらず今度は「おい、コラ、どくの遅いんじゃ、なめんとんのかワレ、俺に喧嘩うっとんのか?うっとんのか、おい、どや、はっきり云うたらどうじゃ。はっきり云えや!」と云って執拗につけ回してくるものだから、僕は人様の家に遊びに来たのにも関わらず、トイレに篭ってやり過ごそうと席を立つのだが、そうするとまたトイレまでついてきて「おいコラなんとか云え!どつくぞ、どついたるぞ!おい、ボケ、なめとんのか、川崎の狂犬なめとんのか!」といってドアをどんどん叩くからもう精神的に参ってしまって家主におじゃましましたと云うことしかできなくなるのだ。すると家主が「なんでそんな怖がってんの、馬鹿じゃない。」といって川崎の狂犬を抱きかかえてくれるのだが、そうすると犬はまるで手のひらひっくり返して「やー、ご主人様、あいつがかまってくれないんですよ、こんなに可愛い僕チャンを」なんて僕言葉使い出すから腹立つのじゃ怖いのじゃあいつらはあああああああああ!
 というわけで猫も犬も飼えない。ただ僕は如何せん一人ぼっちというものが大嫌いな寂しがりやであるから、何かしら家に帰ってきた時に「おかえり、今日もお疲れ様。」と撫でた声で云ってくれるような友達が欲しい、女ならばなお良きかな。というわけで何か飼育して毎日家に帰る度に「おつかれ、今日のごはんちょうだい」と云ってくれるようにしたいのだが、僕は猫の他に、両生類爬虫類が大好きなのである。どれくらい好きかというと女に振られ雨に降られ金も無くて煙草も吸えないような夜にはインターネット上に乗っけられている、フトアゴヒゲトカゲがミールワームというそれ専用のミミズを食っている様子を撮影した動画、また、アオガエルがゲコゲコ云っている動画を見て、明日も頑張ろう、ヨッシャーと元気を出すくらい愛して病まない。思えば小学生の頃はヤドクガエルという黄色黒にまだらに色のついた如何にも、ワタシ毒がありますというような面持ちで魅かれる。それはいかにもちゃらちゃら遊んでそうな女が魅力的なのに近しいと僕は思う。また、カナヘビというトカゲに近しい金色の鱗を持ったトカゲが僕の以前住んでいた九州福岡鳥飼、大濠公園やら鳥飼小学校校庭やらにわんさかおったのだが、それを捕まえて国語の授業中それを弄じ繰り回し愛で倒しということをしょっちゅうやっていたが、残念な事に除虫罪を撒かれた草を噛んでころりと逝ってしまった。墓も作ったが、今となっては彼女の名前は忘れてしまった。ヘビも非常に好きで、一時期千葉の実家の庭に白蛇が住み着いた事があって、捕まえて弄じ繰り回し愛で倒してやろかなと思ったのだが、弁財天様の使いをそうやって拘束してしまうことでばち当たり、貧乏困窮に見舞われてしまう事を恐れてほうっておいたらそのうち何処かへ行ってしまわれた。それだから僕は今金が無いのかも知らん。いざ働かん。いざ働いて金作り、いざトカゲを飼わん。五月には埼玉自然公園へ出向いてアオガエルも数匹捕まえてくる予定です。ビバ両生類、ビバ爬虫類!

2011年4月11日月曜日

擦り硝子

見えていなければ存在しないも同然であるというのは強ち間違いではないが、存在しないというのは想像することが出来るという点で優秀である。義経はハーンになったかも知らんし、島津豊久は異世界にいったかもしらんし、僕の昔付き合っていた女はとっくのとうに死んでおるかも知らん。まあ義経がハーンになったり島津豊久が異世界にいったりなんていうのは厭くまで架空の産物であってそれは想像とはいえない。想像というのは、あるかもしれないし、かたやないかもしれないそのごぶごぶの線があるから掻き立てられるので、擦り硝子というのはそういう意味ではナイスなチョイスをしておる。ラブホテルに行くと、浴室が見えるようになってしまっているのがあるが、あれはなんというか、風情がないように思える。女が裸でシャワーを浴びているのがその仕草形でわかるのだけれど、果たしてその毛の一本まで見えぬという、そこに興奮するのであって、擦り硝子でない普通のだと、なんだか女の本当の価値ぐらいしか抱けないようで興ざめする。浴室もくっきり見えるなんていうのは、乱交でもする時に浴室とベッドで行為しているときに互いがおこのうているのが見える、という利点くらいしかない。女のことになってしまったが、女のことでなくても真実というのは見えないようで見える、見えるようで見えない、それくらいのがいい。とかく人間というのは冷静に物事を考えすぎなので、酒に酔っている時くらいのが物事を考えるには丁度いい。超同意。煙草も酒も薬も、人間が本能のみままに悦楽を感じることの出来るようにするツールである。そもそも神様とか聖書とか、酔っ払いだかラリった阿呆が書いてる怪文書、でもそれが此の世界で最も読まれている書物になるくらいのだから、皆酔っ払って葉っぱで頭を舞わしてる位が丁度いいのだ。ええじゃないか。平成の世の卯月の夜に皆でぐるぐるぐるぐるぐるぐ。ええじゃないか、ええじゃないかと皆で踊り、やれ、丁度外も暖かくなってきたことだし皆裸でセックスセックス。そもそも卯月というのは産まれるとか初めてとか、四月がそういう月であるということを表しておるので、ゴムも付けずに喜びのままにセックスに興じればいい。人類皆兄弟と申すじゃないか、色んなひととやったらええよ、美人、不細工、ちび、でぶ、じじい、ばばあ、女の子、男の子、小学生、幼稚園生、幼児、胎児、同性、黒人、白人、黄色、アメリカン、ユダヤ、アラブ、梅毒、クラミジア、エイズの女、白痴、痴呆、つんぼ、めくら、おし、うつけ、気狂い、胡瓜、茄子、人参、牛蒡、ありとあらゆる万物、神、そして、僕とか。皆兄弟になって、ともだちになって、平和。

2011年4月8日金曜日

大気中姦淫

 花粉。花粉が日々舞っていて平常の生活を全うすることが出来ない。目は痛み鼻は詰り頭はぼうっとするものだから、人に会う時だって準備が遅れるし、外に出れないこともある。苛苛する。そもそも花粉というのは、動けない木々達が花の柱頭にどこぞから飛んできた花粉を着生して、子孫反映する為に行われているものであって、言うなれば花のセックスである。それをまぁあいつらはところ構わず撒き散らすものだから、僕らは妊娠はしないけどその精子を飲まされているわけなのだ。だから、僕は花粉症のひどい女の子というのは精子を全身に塗りたくられている様を想像してしまう。嗚呼興奮する。心の中で想像した時それは既に自ら姦淫を行っているも同然、とそう聖書に書いてあった。確か新約のほうだったと思う。
 しかし、何故だって此れ程お前ら木々の生殖の為に我々人間様が、僕が苦しんでやらねばならないのだ、あほ。なんというか、人の家にあがりこんできたカップルが勝手にセックスを始めているようなむかつきを感じる。(俺の家で上記事項に身に覚えのある黒髪カップル土下座しろよ)大体姦淫、セックスというのはそもそもわれら総じてすっぽんぽん、丸裸布一枚の原始のころから存在しておるわけで人の家で姦淫を行いたくなったら着物を脱いで外へでも出てくれば宜しいのだ、発情期のあほどもめ。基本的に僕の家では僕とその女のみが姦淫を行えるようになっているのだ、それがルールだ。あほ。しかし、地球の有象無象の木々、花々達からすれば勝手に上がり込んで四六時中人目気にせず姦淫を行っているのは人間のほうかも知らん。まぁ花見なんかで、酔っ払ってる奴は木の根っこに小便なんかを引っ掛けたりするから、花粉を僕らに引っ掛けてるあいつらとは団栗の背比べと大して変わらんかもな、と思った。
 花粉の何がそんなに気に食わないかというと、鼻が詰まってしまうところ。僕は稀代の酒のみであり飯もうまいものしか喰いたくない金遣いの荒いたちであって、鼻が詰まってしまうとこれらの味がわからなくなる、と、するとうまいものを食ってもわからない、うまいものとまずいものの区別ができない、となると非常に気分がよろしくないのだ。最近ではスコッチ、グレンオードのシングルトン12年物が手に入ったのでそれを飲むようにしているのだが、晩酌をしようと思ったときに鼻が詰まっておると、どうもそんな高い酒を味が判らない状態で飲みたくない。うまい酒はうまいと感じることが出来るときにのみたい。珈琲なんかは特にそうで、3月から5月のはじめ僕は絶対に喫茶店に行かないのは、どんなにうまい珈琲でもこの時期は何を飲んでもまずい。家では大抵インスタントなので味なんてもうどうでもよくて、砂糖とミルク粉をたっぷり入れた腐った珈琲を日々たのしんでいる。あ、なんか前にも書いたぞこれ。あれだ、先日懸賞用に珈琲のエッセイを書いたのだ。それと内容が被ってしまいそうなので珈琲の話はこれくらいにしておこうと思う。
 昨日親爺と呑んでいた時に煙草を数本貰われて、今朝見たら一本しかなかった。買いに行くには花粉がつらい。嗚呼、しけもくか。しけもくというのは吸い終わった煙草に再び火をつけて吸うという大学生の常套手段であるが近頃そんな堕落した人間に出会うこと自体が稀なような気もする。花粉でつまった鼻になんとか煙を通して鼻をすっきりさせたいと思って煙草を吸うのだが、うまくいかない。そうは鼻水が通さない。誰か俺の僕の中を舐め回してくれねぇかなぁ、女の子。多分最高に気持ち良いぜ。多分やってる側よりもやられる側のほうが気分がいいから、フェラチオみたいなもん。feltization with me. 鼻から煙を無理に押し出す、えんらえんら、ゆらら。えんらえんらと見上げる競争をしておったら彼は「天井があるのはずるいではないか」と言うので鼻で笑ってやった。煙草一本ではなんの足しにもならない。くそ。
 

2011年4月4日月曜日

はじまり。

昔昔、男は苛苛していました。
いつものように煙草を吸い、酒を飲んでも苛苛は収まりません。
お気に入りの音楽を聴いても、心は晴れません。
それは昨日、ずっと恋焦がれていた女に振られたからでした。
「ちくしょう、俺があの子に振られたのは俺がとんでもない不細工だからに違いない。こんな俺には生きてる価値なんて無い。いっその事死んでしまおう。」
男は野垂れ死んじまおうと思い、森へ向かいました。
美しい花、凛々しく聳え立つ木々、そんなものに彼は糞程の価値も見出せません。
そうやって森の中をぐんぐん進んでいくと、何やら怪しいものを感じ取りました。
絵を描いている美男子がいたのです。彼にいくら話し掛けても、言葉が返ってきません。
彼は、うまく物が言えなかったのです。
なんとなく男は自分の全てを話したくなって、女にふられたこと、それが自分が不細工であること、酒を飲んでも好きな音楽を聴いても気が晴れないこと、全部話してしまいました。
するとその絵描きの男は、筆を物凄い速さで動かしはじめました。
描きあがったのは、さっきまで全てを話していた男の、綺麗な、綺麗な顔の似顔絵でした。
「俺の顔は、こんなに綺麗だったのか!女に振られたのは、あの女の趣味が悪いに違いない!きっとまたいい出会いがあるさ!生きよう!」と喜び、有頂天になりました。
すると、絵描きの彼は、喋りづらそうに、自分も不細工なのではないかと悲しんで、森に野垂れ死に来た事を告げました。
有頂天になった男は、事実素晴らしい美男子である絵描きの顔が如何に素晴らしいかを、幾千の言葉を使って表現し続けました。
絵描きの男も、喜び、有頂天になりました。しかし、そこで二人はげらげらとまるで馬鹿になったように笑い続けました。
二人は、見た目にこだわることがどんなにくだらない事か気付いたのです。
もう人生がたのしくてたのしくて仕方なくて、息が苦しくなるまで笑い続けたので、死んでしまいました。
そこから千年が経ち、時は西暦2010年、生まれ変わった彼らは再び出会いました。
そして、二人の言葉と絵で、本当の幸せを探す旅に出たのです。

2011年3月27日日曜日

鼻見離さず

 聞けば今日、雌雄雄雌集まって鼻見をしていると云う。ねたましい。俺も女の子の鼻を見て、「はぁ、君のはだいぶ尖がっているね。鳥類の名残か知らん、いとおかし」とか言いたい。んで、俺も鼻の穴にずいずいと入り込まれて、女の子だよ、女の子。女の子に、指じゃなくて、体だよ、体ごと。体を全部すっぽり押し込まれて、逆レイプ。和姦だけどね。下らんことを考えていると日が暮れるというが、本当に暮れた。映画に行く約束をしていた大悟がいつになっても連絡を寄越さないので、またあいつに酒を奢ってもらわないといかん。人様に酒を奢ってもらうなんて、そんなそんな大それたこと、僕は善良でまっとうな人生を暮らしてきた人間なので、罪悪感が走る。さいなまれる。あぁ、あいつに酒を、あぁあいつが、悲しいかな。悲しいので焼酎を湯で割り、そこに梅を入れた。しょっぱい梅のが旨いだろうと思っておったが、間違いだった。からい。塩辛い。酒から塩の味がする訳がないだろうと抜かす奴は今すぐうちに来て飲めばいい。海水で割ったような味がする。プランクトンたっぷり。肴はするめ。何ともマリンな一人酒。そういえば、梅についているしそ。あれも、わかめの一種じゃなかったか知らん。日が暮れてきて僕の部屋はパソコンの青い光につつまれて海のようだ。いっそベッドもウォーターベッドにしようかな。ジョゼと虎と魚とで、水族館みたいなラブホがあったが、そんなかんじ。酒も回って僕も回って、ファンタジーな気分。しかも、飲んでるのは塩辛い、わかめの入った焼酎。わかめ酒?いいね、そういうのも。そういうのはプロに頼むと青くなる程金がかかるので、僕がいつも悪ふざけしている大学のあいつらと、女を酒に酔わせてやらせるのがいい。僕は衛生的観念上飲みたくないが、端で眺めて笑っていたい。笑っていたいな、いつでも。前に、僕とあいつで飲んだ時、女が一人捕まって滅茶苦茶にしたっけなぁ。僕は腰を振るかどうか悩んだが、惰性で振った。こんな女つまらんなぁと思ったのだが、あいつは、こんなたのしいことは初めてだと言ってたっけ。とんかつ喰うほうがたのしいんじゃないか知らん。あの淫売、きっと人生もう駄目だろうな。僕は絶対結婚しないし、誰か結婚するやつがおってもああいう奴はいつか下郎に騙されて現から離れ幻想とファンタジーの世界へ夢むのだと思う。らんららん。ららん。酒を飲む。遊泳する、魚。外には人間の正気が走っていて、そこに戻ることはた易いのだけど、戻る気がしない。砂の女ってやつか。夢幻はどちらだろうね。メールを溜めている。返してないのは、明日のお誘いと、仲直りの切符。いや、仲直りの切符かどうかわからんが、どちらにしろ回数券はこれで最後であって、あなたが買いたければ買い足しなさい。ということなのだとおもう。まったく強情張りな女だ、僕も強情張りな男だけれど。

2011年3月24日木曜日

 うまい飯屋にたどりつくのはいい女と巡り合わせるくらい難しいことだが、うまい珈琲と出会うのは、千載一遇いい女と巡り合って、さらに夜伽まで持っていくことくらい難しいのであって、これ奇跡と言わずしてなんというのか。僕は齢十九年下天の内をだらぶらしておるが、美人な女と運良く、は何度かあっても、うまい珈琲に出会ったのは一度だけで、渋谷のどこだったか、少し外れた坂の途中にある店は珈琲は砂糖やミルク粉を入れずともおいしく、シフォンケーキもうまい、外で原稿を書くときはそこに行く。しかし僕も下天に堕ちて十九年、珈琲を飲みつくしたわけでもないのに、貴様珈琲のなにがわかると言われるがそれもしかり、不届き故この場を借りてお詫び申し上げよかなと思う。
 といっても、僕は我が家で珈琲、毎日湯水のように飲んでる。というのが、簡短極まりなくて、カップに砂糖と、粉と、珈琲の元らしいのをスプーン一杯入れてお湯を入れれば一丁あがりという、インスタント?を毎日作って飲んでる。まずい。砂糖と粉も分量気にせずに入れるもんだから、あまい。なら何故飲むか。たとえ話。きみは、いい女とできるからといって、自分のすぐそばにおる不細工、もっといえばあばずれかもしれんがそれを我慢するか、いや、君らがなんといおうと僕はしない。それを僕はきまって家族とリビングで飲むのだが、それはそれで風情があって、だから僕はまずい会話とまずい珈琲を大いにたのしんどるのである。僕の家のリビングというのが、親父の趣味、わけのわからん鮭を咥えた木彫りの熊がおったり古臭い銃をもった外人のおっさんの剥製がおったり、加えて近代的な薄型テレビがあるからして、家の中でとびぬけて不細工な部屋で、それがたのしい。しかも珈琲カップがないからティーカップで飲むから、余計不細工。こんなものを飲んどるとうちからだんだん不細工になってゆく気分がして、それはそれで、いい気分なのだ。

2011年3月23日水曜日

「胡瓜」

ひとのねがいは十人十色、薬師、飛脚、八百屋、牛乳屋、魚屋、畳屋、なりたいものはそれぞれあるだろうが、胡瓜の場合どいつもきつも生まれいづるころから夢見て病まぬのは、料亭のねたになることで、みな物心ついた頃には、それに選ばれるような形格好になるべく日々鍛錬を重ねておるのである。とはいえ、「阿」といえば、「吽」というように、胡瓜自身は粒の一つも動かせないもので、料亭におろされるような立派なものになるかどうかは、こんぴら山の農家のじじい、甚吉の手腕に依るところである。毎年毎年このじじいの畑からは見てよし、食ってよしの瓜が育つのだが、それは酔いどれの甚吉の、いい加減に耕したのと、肥撒き、水遣りが偶然に偶然を重ねて効をなしているわけだが、そんな出鱈目な作り方をしておるもんだから、寸詰まりなものや、ばけもの胡瓜がちょこちょこできる。他より小さいからといって実がつまっててうまいというわけでもないし、大きいからといってよく育ったわけでもないので、そういう、アブノーマルな瓜でなしは料亭のねたになりえない。ちょうどいいおおきさで、ちょうどよくそり返り、ちょうどよく実がしまっており、つぶつぶが沢山あるのがうまい。今年の甚吉の畑の、甚吉の家のそばにある畑にはちょうどそういう、しっかり、ねたになりそうな胡瓜が、ちょうど大きな花の下にぶらんと吊られておるので、周りから「はなたれ」と呼ばれておった。


野菜というのは元来世話しない生き物であって、暇と見ると話しかけてくる。そもそも自然界で動けない野菜どもが喋る以外になす事を探すほうが難しいのである。あるとすれば寝ることくらいだが、周りの連中も、もっぱら喋ってばかりいて昼寝なんてものは困難を極める。
「はなたれさん、はなたれさんよ。」
声を掛けてきよったのは前述した胡瓜の内のひとつ、長さっ足らずの寸詰まり、あまりに詰まってしまったものだから先端あたりおよそ陰茎のようで、誰もが陰口にそいつのことを男根呼ばわりしておった。男根は卑屈に笑いを浮かべると、ええ、はなたれさん、ぼかぁあんたがうらやましい、なんでじゃ、ぼけ、いやぁあなたのように、形もよく、ていよくそりかえってきれいな色をしておるのできっと腕のいい板前さんにきらきらにされるにちがいないやぁ、とおもいましてね、そうだろうそうだろう、僕もそう思っておる、わたしも糠漬けなんかにされるよりきちんんと調理味付けされて身なりのよろしい人間様に食っていただきたいものですよ、あほ、貴様はそうだから立派に成長できんのだ、貴様なんぞ糠漬けどころかかぶとのえさだ、こう考えろ、人間が、こんなに綺麗に育った胡瓜様を食わさせていただいておる、そう思うべきだ、しかし、そういう心持ちになるためにはきみぃ、もっとしっかり大きくならなあかんよ、はぁ、そういうものですか、きみもちょっとは体を揺らして、重力というものに実をまかせてみてはどうだね、伸びるかも知らん、わかりました、やってみましょう。男根はそういったことを喋り散らかしたと思うと、茎のしなりをつかってびよんびよんと縦に揺れた。それが、人間のいうちんこを動かしておる姿そのものだったので、俺は笑いを堪えるのに必死であった。
今度はばかでかい、まるでサッカーボールとためをはろうかという巨大なパンプキンがはなたれに話しかけてきた。おまえというのは、色形がすぐれておるからといって、おれの大きさにはかなわんだろう、ひれふせ、ひれふしてみろ。ははあ、あなたの大きさには感服するばかりであります、しかしぼくは瓜として生まれてきてしまった以上ひれ伏すことはおろか、あなたのように地べたに這いつくばることができないのであります、しいてはこのように陰茎のような僕の体をぶらぶらりと揺らすことでお許しを頂きたい限りでございます、と申したところ、周りの胡瓜一同はおろか、パンプキンのなかまうちですら笑い出してしまい、パンプキンは顔を真っ赤にして土に埋めているばかりであった。そもそも俺は懐石料理のねたになりたい、という強い願望はあるが、逆に俺なんか、そんな大層なものに選ばれる程姿格好が恵まれてはいない。自虐体質だな、俺。だからといって、誰かに罵倒されるような筋合いもないのだよ、くそ。だから、俺を褒めるものに対しても蔑むものに対しても惜しみない皮肉を厭わないぜ、なんだってお前ら五体不満足の相手なぞしてやらねばならんのだ、俺はそれこそ最高の胡瓜ではないが、平民どもがサラダにして喰うくらいだったら亭主が「おや、今日の胡瓜は美味しいね。」なんて一言を妻に言うくらいの胡瓜ではある。そもそも俺達胡瓜のようないち野菜風情には固体差など殆どあってないようなもの、あってもそれはおのが決めることではなく人間様が決め付けることであって、もしいただくのが人間でなくリス公かハム公であった場合、うすくてやらかくてまるで芯のない胡瓜がうまいと感じられるかもしれないし、あのちびででぶな男根やろうも、蟋蟀に食わせりゃ旨いというかもしれないのだ。そりゃ俺だって毎日あの甚吉が撒く何十年井戸の奥底で澱んでいた水よりかは、あそこに見える霊峰富士の雪解け水のが旨いだろうとは思うが、五体不満足の胡瓜どもは甚吉がくれるそれをうまいうまいと云いながら飲んでいるじゃあないか、あほ。グルメグルメというとるあのお化けパンプキンなんて地べたにおるから、自分の飲んでる水がどこから来ておるのかも知らない。その癖あいつは「いやー矢張り甚吉の水はセンスがいいね、こう、スカッとサワヤカというかなんというかこう、それでいて甘味がある。俺くらいのグルメ、もし来世人間にでも生まれ変わったなら水一つにも俺はこだわってやるね、ああ。」なんて云ってるもんだから誰も事実を教えてやらない。事実を教えてやる奴が一人でもおればあいつはこんなに他の奴にいちいちケチをつけるような悪い奴ではなくなると思うのだが、如何せん彼の生き方がスカッサワヤカしないものになってしまうことを懸念して誰も云わない。基本的にこの畑の奴らはいい奴だ。といっても俺も前世の記憶があるとか、以前他の畑におったとかそういう訳ではないのだけれど、なんとなくそんな気がする。以前甚吉が酔っ払って俺達に日本酒を撒いた事があったが、胡瓜一同は根っこを通してきちんと皆に行き渡る様に分配していた。他の種類はどうだか知らないが、皆でたのしくぎゃあぎゃあわめき散らしていたので、きっと皆行き届いていたに違いない。待てよ、そのときパンプキンは一人酒が来なかったといって文句たらたらだった記憶がする。何分その時の事は酔っ払っておったので詳しくは覚えていない。その時最初で最後であろう酒の味、そして宿酔というのを初めて味わったのだが、此れほどに素晴らしいものは無かった。というのが、まず起きた時に、朝の光がいつもよりやけに輝いて見える。何事か辺りを見回すと、目に入る総てがきらきらと輝いていた、まぁ、俺の目が何処にあるかとかそういうことは置いて、太陽があかるい、雲はしろい、大地はみずみずしい、水たまりが光を反射していて、黄色。まるで好青年のように辺り総ての野菜に朝のご挨拶でもして差し上げよかなと思うくらい!ワンダホー、ビュティフォー。もしこんな思いがまた出来るくらいだったら、俺は来世は人間になりたいなと思うんだ。それも、五体不満足ではなくて、ある程度顔格好の整ったある程度の人間に。嗚呼、人間になりたいな、人間、人間。人間ていいな。酒が毎日飲めて、体を動かせて、遊べて、俺達野菜の殆どを喰うことができて、そして生殖行為を快楽と供に自ら行うことができるという、人間いいことだらけじゃないか、畜生。俺達野菜はおしべがどうとかめしべがどうとかいう受粉でしか生殖行為を行うことはできないし、そもそもふらふらよたよたと彷徨い飛んできた何処の馬の骨かもわからんような花粉と生殖しなければならないのだ。無論、行為は終始無言でおこなわれ、お互いやらなければならない仕方ない義務労働を終えた虚無感に包まれてそれを終えるに違いないのだ。その点人間は愛の有無はとりあえず、生殖したいと思えるような異性を見つけ、生殖行為の対象というものを選ぶことが出来る、なんて素晴らしいのだろうか。嗚呼俺は胡瓜なんて厭だ、人間、人間に生まれ変わりたい。人の女の、おまんこに入れてみたい、快楽を、感じてみたいよ、ああ。俺はしがない胡瓜で、胡瓜の中では割としっかりした身持ちのある「はなたれ」だが、それでも胡瓜だ。喜びがあるとしたら、懐石料理になるくらいじゃないかね。懐石料理になれたら、神様、来世で人間にして下さるというのはどうでしょうか。よし決めた、俺は懐石料理になってやる、それまでにしっかり鍛錬を重ね、この畑いちの胡瓜になってやろうではないか。







体中が痛い。無理なトレーニングはしてこなかったはずで、その証拠に俺の身体には傷一つついていない。だって体に傷が付いたら一貫の終わり、どんなに中身が美味くとも傷の付いた野菜など板前がイエスと言うだろうか、否、言わない、そもそも板前さんはイエスとは言わない。彼が首を縦におっ振るところを見なければ俺のこの、青の棒切れ、水の果実、胡瓜としての生涯に意味等見出せぬ。とにかく体は傷ひとつ無い。詰まるところこれは成長痛と云う奴で、懐石料理になるよう決心したあの日以来ひたすら痛みを我慢し続けてきた。周りの友人どもからも、身が引き締まっているとか、ふったちのねずみには、あんたみてえな胡瓜、俺は百年生きてきたが見たことねえぜ、うまそうだ、俺が食っちまいたいくらいだがあんたにも夢ってもんがあるんだろ、応援するぜと鼓舞叱咤激励を受けたが、まあねずみにそんなことは言われたくないとは心のどこかで思った気がする。あの時はちょうど夕暮れがオレンジ色で、オレンジっつってもパンプキンの奴みたいなきたねえオレンジでなくて、まぶしく輝いてる感じのオレンジが俺達を包んで、こりゃもうここでカットしてもいい映画が取れるのじゃないか、よし、クランクアップお疲れ様、なんて、そうはならないよな、まだ、俺が料亭の板前に美味しく調理されるその瞬間まで読者諸君には見届けて貰わねばならぬ。その為に、また自分の夢の為に努力したその結果がこの痛みと云うわけだ。云わば男の勲章、嶋大輔、ヤンキーパンク魂ここに極まれり。そういえば若い頃は胡瓜皆で他の野菜と揶揄罵倒を言い合った事もあったな。流石にバイクは盗めなかったが、仲間の一人は尾崎に憧れて自らつるを切り命を絶った奴もいた。今でも伝説の男として語り継がれている、あいつ今頃は星になって、なんて。でもパンクがどうとかロックがどうとか痛いもんは痛いのだ。そしてそれに追い討ちをかけるのが、ひたすら続いているこの揺れで、というのが今俺は荷車の上でがたごと揺られていて、それは甚吉が俺のことを市場に持っていく位の大物の胡瓜だと見なしたということに相違ない。あい長らく努力忍耐してきたが、馬車に乗せられた時程の大感激は今までに感じた事が無かった。酒の酩酊だってなかなかのものだが、これに勝るものではない、それくらい、俺は今喜びを感じているのだ。手足が生えて、自由に動かせるようになったとしても、綺麗におうたが歌えるようになったとしてもこの喜びに勝るものかい。私、胡瓜と小鳥と鈴と、みんなちがってみんないい!美味しいきゅうり!ただ、この荷車の揺れというのはどうにかしてほしい。ごとごとと揺れるたびにとなりのトマトやきゃべつに当たってなんだか気遅れするし体が傷つかぬやら心配になるし、おそらくは向こうも同じような不安を抱いているに違いないのだ。頭の中でいつ聴いたかもわからない曲が流れる。

”荷馬車が 市場へ 子馬を連れてゆく ドナドナドナ”

否、俺の気持ちはそんなに悲しいものではない。寧ろ喜び勇んで戦地に旅立つ日本兵のような、そんな猛々しい、大胆不敵、そう、俺は今大胆不敵の勇者だ。ただ正義の味方というのはなんとも喜ばしくない、あまりそういったストレートな好かれる奴というのにはなりたくない、俺はあくまでシニカルに、笑っていたいタイプなのだ。だからこそ人間様に食われるという、己の死を夢見ることが出来る。思い返せば、畑の中には人に食われるのが怖くて恐ろしくてかなわない、助けてくれ助けてくれと、わめき散らしていた胡瓜もいたが、そいつは寝ている間にねずみに食われて死んでしまった。ねずみが云うには、ああいうのはどうせいい胡瓜にならないから悩む前に食っちまったほうがいいと云う。たいていどの野菜にもひとつくらいはそうやって自分の死を悲しむ阿呆がいるもんだ。死ぬ事を嘆くというのは、生まれてきた事を嘆くのと同じで、そういう奴は親の顔を足で踏んでるのと大して変わらない。早いとこ死んだほうがまだ親孝行だと俺は思う。先程日本兵の話をしたが、ああ云う連中は勝ってくるぞと勇ましく、死に行く為に生きるというああ云う奴等とは真逆の人間だったに違いない。ただまあ、そうやって母国のために死ねと云われても彼らと俺とでは全く状況が違うと思うし、そもそも考えることは大体似たような感じであっても俺達胡瓜の一生と人間の一生ではすべてが違う。羨ましいな、人間というのは。甚吉のように野菜を育てる為だけの人間にはなりたくない。どうせならもっと、こう、歴史に名を残すような感じ。そうだな、とんでもないやくざ、いや、マフィアのがいいな、それになって縄張りとか、そういったことで抗争をして、最後には皆撃ち合い殺し合いというのはどうだろうか。胡瓜として人間に食われて死ぬよりかはよっぽど格好のいい生涯だと思う。胡瓜というのは死に方も、死に場所も選べない。死に方なんて腐って死ぬか包丁で切られて死ぬか、それかけだものに食われて死ぬかの三種類だと思うし、死に場所なんてこの論理で行くと畑かまな板だ。無頼派気取り、厭世して生きたい様に生きるとか云ってる奴等の中では、まな板の上で死ぬよりかはけだものたちに食われて生まれ育った場所で息絶えるというのがファッションらしいが、俺はそうは思わない。どうせならけだものにナイフもフォークも無しに食いちぎられるより、吟味に吟味をこした調理をされて、人間様に有難がれながら頂かれるほうが嬉しいじゃないか。俺はそうする、そうなる、なってやるのさ。その為に今までこんなに鍛錬を重ね立派な胡瓜になったつもりだ。存分に味わって頂きたいさ。しかしまあこんな事を長々と考えられるくらい、荷車というのは暇で暇で仕方が無い。人間の移動手段の中には電車というものがあって、それに乗っているのが結構な暇らしくて、俺達には出来ない本を読む読書というものや、人間様の技術力によってどこでも音をもらさずに曲の聴ける何か機械があるらしくて、それで一人で電車というのに乗っていても退屈せずにいられるらしい。俺達野菜にはそんなもの持っていないしそもそも使える筈も無いので、どう退屈を紛らわしたらいいのか知らん。一人でしりとりでもするか。甚吉、ち、地球、う、瓜、り、林檎、ご、後鳥羽上皇、う嘘吐き、き、胡瓜、り、栗鼠、す、西瓜、か、鴨、も、もずく、く、熊、ま、ま、ま…
「ま、枕」
いきなり隣のきゃべつが云った。びっくりして俺の頭にある花のいちまいがひらひらと落ちてしまったじゃないか、おい。
「何をそう吃驚するかね、お前さんが口に出してひとりでしりとりをしていたから参加してやっただけだろう。」
なんだ、俺は声に出してしりとりをしていたのか、穴があったら入りたいくらいだが生憎ここに穴はないし穴があっても動く力というのが俺、胡瓜だからそもそも存在しない、困った。
「よし、いいだろう、二人でやるか。」
以下、二人でしたしりとりの記録である。

”駱駝、だ、達磨、ま、丸太、た、太鼓、こ、木霊、なんだお前というのは嫌ったらしいやり方をするな、ま、枕木、おい、それはせこくないか、き、きい、それは英語で云う鍵のことか、それとも変てこなことを指す奇異か、まあどちらにせよ、い、いくら、らっぱ、ぱ、ぱ、ぱだと、ぱんぷき、、いや駄目だ、ぱぱ、ぱぱ…”

ぱ、ぱ、ぱ、何故ぱのつく言葉がこんなにも出てこないのだ。ぱだと、ぱなんてのは破裂音だし、海外の言葉以外になにかあるのか、さっきキーとか英語を使ってしまったせいで英語を使うのがはばかられる。ぱ、ぱ、ぱ、おい、どうしよう、ぱだよ、なにかないのか、パン、いや、駄目だ、いや、いいぞ!
「パン粉!」
そう云った瞬間に大きな震動がして、身体が揺れたと思ったら、宙に浮かんだ。飛翔、そして落下。落下が収まった時、あれ程続いていた震動が収まった。と同時に、荷車が前方に見えた。全身の血の気が引くようだった、といったら語弊があるが、つまり、荷車の上から放り出されたのがわかった。表現が間違っている事を承知でもう一度云うが、血の気が引いた。俺の夢、果てた、いや、まだだ。俺は今まで要領良く生きてきたつもりだし、これからもそうするつもりである。足が無いって、そんな事はわかっている、足が無ければ足がある奴に運んでもらえばいいではないか。そもそも甚吉に運ばれるのだって要するにそういうことだったわけだ。よく考えろ、何が運んでもらうのに一番適しているのだ、犬は阿呆だから駄目だ、食われてしまう、虫達も駄目、あいつらの大好物じゃないか、俺は。ふったちのねずみがいれば、余裕のよっちゃんで荷車までもっていってくれるのだが。おらんか!ねずみ!おーい!やっほー!SOS、ね!ず!み!そうだよな、いないよな、くそ。
「どうかしましたか、胡瓜の兄さん。」
声をかけて振り返ると、そこには、翼の生えたエンジェル、もとい!鳥だ!すずめ!なんと云う救いだ。俺に対する救いと云うよりはむしろ、このままでは小説も止まってしまって作者も困るのでこの展開に作者が救われるし、この身の引き締まった素晴らしい胡瓜である俺を食うことができなくなる人間の皆様が救われたのだ。となるとなんとしてでもこのすずめに荷車まで戻してもらわなければいけない。
「す、すずめさん、助けて下さい、緊急事態なのです。」
なんというせりふ、よくもまあこんなへりくだった事が云えると自分にうんざり厭気がさすが、俺の夢のためならば躊躇するまい、媚びとりいってなんとか荷車まで持っていってもらわなければならない。
「なんだあ、生きていなければ食っちまうつもりだったのに、生きてるのか、つまらねえや。」
先程の発言で訂正すべき点があったとすれば、こいつの事を翼の生えたエンジェルなどと呼んでしまった事だ、くそ。
「いやあ、これしきの事でくたばる胡瓜では御座いませぬよ、どうか、あの遠くへ見える荷車まで僕を咥えていって頂けませんでしょうかね。」
思いとは裏腹に下卑た言葉が口から出てくる。だがそれがなんだと云うのだ。
「咥えて運ぶくらいだったら、食うよ、何を考えているんだ、お前は、胡瓜のくせに。」
「いやいや、そんな事を仰らずに、そうだ、貴方、トマトは、きゃべつは好きではないですか。僕の乗っていた荷台には高級なきゃべつやトマトがありますよ、それこそ、懐石料理のねたになるやつです。どうです、食ってみたいと思いませんか。」
「そうか、僕、胡瓜なんか水っぽいだけだしトマトのほうが甘くて好きだ、お前をくわえて荷台につれてってやるかわりにトマトでも頂こうかな。」
「そうしましょうそうしましょう、あの荷の中でも最高のトマトをお教えしますよ。お納め下さい。」
すずめは俺を咥えると空高く飛び上がった、荷車はそう遠くへは行っていなかった、よかった。
「あの、荷車です。そして、きゃべつとトマトが両隣にならんでいるでしょ、そこの間に降ろしてください、そして、そのトマトが最高のトマトですよ、今までに味わったことのないでしょう、ああ、そっと降ろしてくださいね、僕も最高の胡瓜なのですから、ええ、ええ、ありがとうございます、さようなら。」
すずめとトマトはどこかへ去っていった。トマトは咥えられながら俺に何かを叫んでいたようだがあまり遠くなっていくもんで「わ・・・を・・・ね・・・ろ!」「き・・・む・・・ち!」くらいにしか聴こえなくて、へらへら笑いながら「パードゥン?」とか云いながら笑っていたらきゃべつが俺を横目でにらんだので黙ることにした。以降、市場につくまで終始無言のまま俺達は揺れていた。


気付けば俺達は喧嘩になっていた。発端は茄子が馬鈴薯にぶつかったとか、そんなことだったように思う。