2022年12月1日木曜日

私は、あるいは我々は、宇宙に行くため(あるいは帰るため)の音楽か、あるいは地球から宇宙を見下ろすための音楽を求めています。

 私は、あるいは我々は、宇宙に行くため(あるいは帰るため)の音楽か、あるいは地球から宇宙を見下ろすための音楽を求めています。

 

彼はいつも会うたびに、サイケデリックトランスの終焉を説く。それはホモサピエンス達が次のステージに行くためのサイケデリックトランスの役割というものが終焉した、という意味で、パーティカルチャーにおいてホモサピ達が音楽を中心とする拡大し続ける連続体の中で得るべきものはまた別のものになってきており、個々がカフェイン的にエネルギーを補給し続ける音楽というのではなく、より拡大する連続体の連続性というものに同化するような音楽が今ホモサピの進化に必要なのだ、という文脈です。無論僕も、宇宙というのがまず、はじめに、”あり”、そこに地球というものが”あり”そこにせいぜい一百億か、存在しているかどうかもわからない群体としてちっぽけに存在するホモサピエンス、もとい人間という生き物のその1つが発する音楽をお前達、あるいは俺たち人間に向けてどうする、という気持ちが強くあります。宇宙に、あるいは空からなにかを降ろす、降りてくるものに捧げるために音を出すか、あるいは唾を吐き出すのではないでしょうか。それは先ほど行ったサイケデリックトランスというジャンルの持つサイケデリック性ではなく、連続性のない好きなものをただ集めた子供部屋的な意味合いのサイケデリック的に地球の出す音に感謝するという形でしかなし得ない非常に美しいものだと思います。無論吐き出してしまったらもうそこには何もないのだけれど、それは宇宙と地球のために自らの実存を示し命を燃やすための大事な祈りのような何かのように鳴るのだと思います。

 

音楽は、あるいは音というものは、宇宙から来て(あるいは気散じに)、あるいは地球の核から宇宙を覗き見るための得体の知れない何かだとおもいます。

 

対して、言葉というのは飛来して吸着し同化します。それ単体では意味を持たない、特定の社会において初めて組み合わせて意味をなしていきますが、道具であるものの、コミュニケーションとは必ずしも協調と友愛のためだけに使われるものではなく、憎悪の表現さえコミュニケーションを以て行われます。中指は使い古され記号になってしまいました。

売文の徒としては、ひとつ/ひ/とつを切り刻み意味を持たせ、人に何かをさせる、たいていの場合ことばのつながりは金を使わせるよう仕向けるためのもので、結局のところはなにを書いていても、意図は”金を使え””従え”以外のことは書いておらず、あるいは書かせてはもらえないのです。
商業的、金を儲けようとするとそこに金を払う価値があると見出させるための価値付けが必ず発生しますが、それは何かよりも何かの方が優れているという技術という価値観があるのですが、それはしばしば転倒するし、転倒を目論む人々がいて、それがすごく良いことだと思っています。ビジネスというものはそれを悪用することによって人々の購買意欲を掻き立て、貨幣通貨を使わせ、働かせることで資本主義の歯車を維持することができますが、その悪意と自らの宇宙に対する操のようなものをアンビバレンツに持ちながら、そこでどうしようもなく出てくる膿のようなものを宇宙という教会に懺悔するのです。

転倒をいまかいまかと待ち望み、4分33秒経ったのち静かに立ち上がったとして、数列のイディオムはただのイディオムで、そこに意味を見出す人とあるいは何も知らずにその数列に新たな意味を見出す人々がいます。トンネルを抜けたらいつも雪国だったり、桜の木の下に埋まっているときたら必ず死体だったり、箱の中にいるのは絶対に猫だったり、では僕は困るのですが、困らない人々もいるでしょう。誰かにとっての運命的な出会いが必ずしも全ての人にとって運命的ではありません。文学性は特定の社会における文学的価値の再発見によって為されたものであり、それは点在する無数の星達を意図的に結んだ政治的権力的な星座にすぎず、星座にならない星達は、名前をつけられることはなく、しかし瞳にも確かに映りそこに確かに存在しているのです。私(達)は誰かによって結ばれた星座の間の線を闇に紛れて切る鉄鋏のような音楽でありたいと思っています。

 

宇宙がやがて溶けて地球を飲み込み始めて、(あるいは破壊的で、母親と父親のように自ら産んだ子を怒鳴り始め)、言葉も音もやがては一度あったものからきっと変わり果ててしまうかも知れないのですが…


宇宙から物事を見てみると、宇宙に遠く離れた二つの星があります。それはそこらじゅうにあるのですが、今は宇宙から、とある二つの惑星(x,y)に目を凝らしてください。ホモサピが宇宙でも絶対に壊れない船を開発したとして、光の速度を超えることのできない彼らの船が彼らの寿命を10度使い果たしたとしても辿り着かない距離に、この二つの星はあるのですが、どうやらホモサピの地球(z)からみるとこの二つの惑星(x,y,)はほとんど直線上にあり、地球からは惑星(y)を見ることはできないようです。こうした二つの直線上に重なり合う惑星たちは地球から見た時に、星の数ほどあります、冗談のように。短二度、というのはこの関係にすごく似ている気がします。短二度よりももっと近い距離にいればいるほど、それはわずかな揺らぎのような音を鳴らすのでしょうが、その音はホモサピ達の耳では認知できなかったとしても、地球は、宇宙はその揺らぎを知っているはずです。ピアノの上の全ての音は何かの短二度であり、またそれと同様に私を含め全ての存在するものは誰かの短二度の位置にいるのではないでしょうか。ああ、あの寂れたレストランにおいてあった、壊れてしまった狂った調律のピアノを彼が弾き始めた時、私の心は踊りました。初めは調律の生きた鍵盤だけを叩き、しかしいずれ調律の狂ったピアノの偶然性すら楽しみ始めた時、私は彼の全てにむける愛の大きさに涙を流さずにいられませんでした。狂ったピアノから美しい音楽を奏でることができる男は、全ての同じホモサピ達に不協和でい続けようとすることで協和を保っているように私の目には見えたのです。レストランの開けっぱなしの蛇口からは液体の楽譜が流れ続けており、ピアノの足まで浸していることに誰もが気づかず、彼の足の裏は楽譜のようになってしまったので、歩くたびに音が鳴って迷惑だ、と笑っていました。木の板を踏めば木の板の音が鳴り、鋼鉄を踏み締めると鈍い和音が響くのでした。従業員は慌てて誤魔化すようにすみませんねえと笑いながら雑にモップで拭き始めるものだから、床じゅうが踏めば鳴ってしまうようになってしまい、その日は営業どころではない感じになってしまいました。エアコンからも和音が鳴っていましたが、何の和音かというのは分かりませんでした。美しい音だったことは覚えています。ごうという鈍い音にエアコンの水の音が混じっており、時折レコードのぱちぱちという音を含んでながら、でも本当にエアコンの音だったかどうかは分かりませんが…。


int num; 

num = 0;

If(Repeat<3x):

// ↓3回以上即興していない場合に実行する処理

 

私は、あるいは我々は、宇宙に行くため(あるいは帰るため)の音楽か、あるいは地球から宇宙を見下ろすための音楽を求めています。


1000字くらいの即興で言葉を発してください。
num=num+1

(Repeat<3x):
NASA
が惑星の音、というのを録音していて、惑星というものは常に音を発していて、それがそのまま素晴らしい音なのだけれど、それはまだ幼児の頃の胎内の感覚に近く、実際生きているだけでそこかしこに音はあります。胎内でモーツァルトなんか聴かすな馬鹿野郎。音は確かにそこにあって、幼子はきっと聞いているはずで、その音を感じずにモーツァルトなんか外に出る前から聞いてしまって、モーツァルトを聞ける機会なんか外に出てから何十年、いくらでもチャンスがあるのに、ほんの僅かしかいられない母親の内側の鼓動というものに耳を澄ませないでどうするというのだ。話を戻すと、惑星はそこに存在していて、存在は音を放っています。もちろん熱も放っているのだけれど、熱と音というのはもうほぼ同じではないでしょうか。エネルギーというものは熱と音を放ちます。ホモサピの五感なんて鍛えていなかったらどんどん悪くなっていくものなので、そこにあることをわからないのは仕方がないことなのかも知れません。そこにあるだけでいいので、そこにある、をちゃんとやる、というのはものすごく大事なことです。ただそこに本当に没念と存在しています。私もそうです。そこに目の前に楽器があるということは私というエネルギーが楽器というエネルギーにぶつかった音が出るということです。これは楽器だけの話ではありませんが、兎角、楽器と対峙した時は楽器とぶつかることになると思います。では楽器と、無機物と、有機物と、ホモサピと交感するときに、仮に私は日本語という言語を使ってあなたに語りかけているわけなのですが、それを使えないホモサピがいたとして、音楽というのはまた別の言語的な何かに過ぎないのでしょうか。それは日本語が使えない時にカタコトで話す、というのと少し近く、しかし音である必要はあるのですが、それがレトリックに特定のことしか話せない、というのでは困るのです。エネルギーとエネルギーの邂逅はより原始的な部分に立ち返るべきだと思っています。笑顔というのはDNAに刻まれた共通のコードのように言われていますが、社会的なものでしょう。西洋音楽にて定義された心地よい音、悪い音というのはあくまで不快害虫のようなもので必ずしも全生命体の嫌うものではない、というのが私の認識ですが、私が知りたいことはそのエネルギーの交感の喜びのためのものであり、争うための技術ではない、というのが心の奥底にあるものです。エネルギーの交感というものは時には争いを孕みますが、それはあくまでエゴイスティックな自我と自我のぶつかり合いのためであり、一次元的な、技術的なレトリックを競う場ではないように思っています。言語や音は互いの相互理解(憎悪の意思表示や絶望の表現も含むと思います)のためにあるものであり、劣った音や言語能力、という認識がある人々がいて、そこから弾き出されるような社会そのものに転倒の芽が見つかることを祈ります。
とはいえここは宇宙空間で酸素はなく、でも我々は酸素以外の方法で生命活動を維持しています。酸素を吸うことで生命活動を維持する地球生命体、ホモサピを我々の生命活動維持よりも劣った目で見る動きもありますが、私はそうは思いません。長く生きるにつれ、語彙は増えていきますが、翻訳家のように語彙の数がお金になる世界ではない以上、小さな子供も大人と同じように交感の機会があり、それは言葉の交流の裏にある、ただ、存在している、ということの邂逅であるように思います。その逆は、片言で話す来訪者の言葉を無視する行為に似ているように思います。

私は、あるいは我々は、宇宙に行くため(あるいは帰るため)の音楽か、あるいは地球から宇宙を見下ろすための音楽を求めています。そしてそれは、私が世界につながるために、私の個人的なアプローチによってのみ達成されるものなのかもしれません。

2022年9月9日金曜日

ウォールフラワー雑記

 「人間というものは、根源的に孤独な生き物だ。その相手も孤独だから、人に左右されることはない」

バンド  ザ・スミスのボーカル、モリッシーは強い人間で、だからこそ一人で生きていけるし、生きていかなければならないことも知っている。だからこそ彼が歌う時流れるように歌うけれどそこには確固たる人間としての軸があってそれが揺れるからこそ美しい。人が孤独なのは間違い無くて、だからこそ一人で生きていかなくちゃと気張る人間はいつか崩壊する。それが素のままできるのは狂人だ。何も気にしない能天気な人間たちはある程度のバランスを他者に寄りかかりまた離れながらうまく年月をかけてやりすごしていく。でもやりすごしたくないのだろう?精一杯生きる、それがしたいのだろう?自分の中に存在する顔のどれが自分らしいかもわからないまま笑顔作って必死で生きているのが精一杯なのだろう?

映画のテーマとは全くミスマッチながら繰り返し登場する"asleep" The Smithを聴きながらそんなことを思った。

ウォールフラワー、壁掛けの花。煌びやかな憧れの世界を見てるだけの人間で、社会に触れることができない、そう思っている男の子が自分が憧れていた人々との交流を通して自らの精神の病と向き合うことができるようになる映画。サム役のエマワトソンとパトリック役のエズラミラーが役にどハマりしていて、というか二人とも素で演技してるかのようなハマり方。だけどその二人がハマってるが故に主役のチャーリー、統合失調(おそらく)持ちのローガンラーマンがひたすらに外側の人間でい続けなければならないような、最後まで壁掛けの花を卒業できてない仲間はずれ状態になっていた。正直僕は、"仲間ができて最高にしあわせな彼の生活"は彼の病気が作り上げた妄想なんじゃないかと思っていたがそんなことはなかった。でも一緒にいたって仲間はずれには変わりがない。そのくせ教師に「最初の友達が先生とか最悪です」みたいなこと言うだろ?いまいちブレてる。というかこの仲間がやっかいで、陰な奴らのグループと陽な奴らのグループのいいとこ取りしましたみたいな存在しない理想のグループなので、そこに一人リアルな存在のチャーリーは入り込めない。映画的すぎるんだよ彼らは。チャーリー、君は余りにも現実すぎる。チャーリーが本当の意味で仲間になるには君もロッキーホラーショーの先頭に立って恥ずかしがらずに歌わなきゃいけない。まるでムーラン・ルージュユアンマクレガーみたいに。象の部屋(サムの部屋でも)でWe can be Hero just for one dayくらい歌わないとこのミュージカルの中には入れないよ。まるでミッドナイトインパリの主人公のようにわけわからず付いて行ってるままなら独りぼっちのほうがいい。

サムはよく悪い男に引っかかるロックガール(この映画に出てくる人だいたいロックよりもゴスい音楽が好きなので全体的にゴスなんだけど)で、義兄のゲイのパトリックといつもつるんでいる、彼氏のクレイグの前では大人しく可愛らしくしているが本来はそんな性格ではないとのことだけど、実際チャーリーの前でもおんなじようなおとなしさなので、彼女には男の前でいい子を演じる癖があってなるほどあばずれって感じ。パトリックはアメフト部の…えーとなんだっけ忘れた男の子と交際してて、親バレして喧嘩するシーンが少し蛇足。別にアメフト部が喧嘩するシーンを主人公が止めるのもなんか、スーパーパワーのヒーローですか?というかんじでなんとなくいじめられっ子の理想の高校生活!みたいなかんじがしてこのシーンはとても嫌いでした。

結局チャーリーはどうしようもなく傍観者、ウォールフラワーはドラッグやってもウォールフラワーのまんま。なんていうか、場の根本的な空気に溶け込めていないからディズニーランド行って帰ってきましたみたいなミスマッチさがある。パトリックみたいな、いい仲介役がいて体験するエンタメと、地で自分で世界に潜り込んで行くのとはわけが違う。友達に勧められて始めたドラッグと自らやり始めたのじゃ重さが違う。

残念ながら俺も社会からしたら壁掛けの花、しかも萎れてしまってグロテスクな花、誰しもが悪趣味だと思いながら誰も捨てたがらないだけ、そこにずっと飾られている。だってこちら側の世界の方が稼げるんだもの、アングラでぬくぬくやってるよりも。

だから、そもそも壁掛けの花なんかではなく鏡なんだ、あちらとこちらの世界は違う。

鏡の中には鏡の中で世界があるから、僕らがあの人は変わりものだと思っても、変わり者の世界ではうまくやれてる可能性がある。美女と野獣で変わりものベルを演じたのはエマワトソンだったな。

チャーリーが仲間に入れてもらえるのはドラッグやってるときだけ、あちら側にいく勇気などないし、映画は映画。世の中には映画が終わった後の続きがある。あのあときっとサムはまた違う誰かと付き合うし、それは残念ながらチャーリーではないだろうし、パトリックはもういない。そもそもサムとパトリックを繋ぎ止めているものがなんなのか、映画では明記されない。片親同士再婚の子の心細さか?

世の中は続いていく、パンク突き通すことができないなら仮面を被り続けた方が人生は楽だ。30歳で終える人生設計なら知らんけど。

この映画を勧めてきた彼女からしたらエズラだけが刺さるのではなくチャーリーもまた刺さるのだ。未知の世界に怯える意気地なし、何故なら彼女もそうであるのに、まるであちら側にいると捉えられるから、おっかなびっくり煌びやかな世界に潜り込んで息苦しさを我慢しながらいつ造花とバレるか冷や汗垂らしながら生きているから。

だから自分より人間下手な男がいると愛したくなるんじゃないのか?違うかな。

 

クリスマスに親からもらった50ドルでプレゼント買うような愛が素敵か?マジで?ばっかじゃねえの。

チンピラと血反吐を吐いて喧嘩して奪い取ったぬるいビール瓶1本、俺だったらそっちの方がマシ。でも人それぞれ。

チャーリーが先生から譲り受けたのはサリンジャーライ麦畑で捕まえてだけど本当名作だからといって春樹とかサリンジャーとか別に青春が悪いわけではないが青臭くてとても食えたものじゃないな、俺は女はよく腐らせてから食べるけれど、狂ってしまった女のほうが面白いしそもそもまともな女には好かれないので…

 

女にもらったタイプライターではなく血塗れの抜け歯で小説を書け。

本当は書くことなんか何もない、書くほどの衝撃を受けた時言葉は溢れるものだから。私たちのことを書いて、という時彼は何を書くだろう?愛の詩なんか書けるのか?自分のことで精一杯の奴が?

mon petit au lait grasse


上唇で抑えるように、苦さを肌の上で感じながら、舌の中に甘いミルクを滑り込ませていく。まるで下着と肌の間に手を潜ませていくように、慎重に、そして愛を込めて飲み込んでいく。言葉は物事と物事との間を進んでいく。あれとこれのあいだ、過去とと未来のあいだ、僕と君のあいだ。これらを縮めるように作用する、または遠ざけるように。グルグルと回って近付けたり遠ざけたりする。だから僕たちは一言一言話す時に神経質にならなければならない。一言一句が自分そのもので、しかしそれぞれが一度口に発して空気中に音として消えていってしまえばはいそれまで溶けていってしまうが、そうなってしまってもそれを発した自分もその中に消え入ってしまっていって何故それを言ったのかは今の自分は全く覚えていない、ということはよくある。

閉店間際、片付をはじめている店員を余所目に彼女と僕はまだ二割も飲みきっていないまま、じつと互いを見つめていた。スピーカーから流れるGSの単調なエイトビートと阿久悠のように糸を引く言葉だけが上滑りしていった。

昭和歌謡の言葉というのはどうも美しい。恋の歌ばかりだけれど、恋とは唯一無二のfemme fatale あるいは"あんただけ""あなたしかいない"であって、現在のスマートフォンを左スワイプで次の人どうぞ、とまるで婚活パーティのような恋愛が常態化した簡素でインスタント、代替可能なパートナーを探す気散じの遊びではない。ファムファタール、自分の人生を狂わせる運命の女。狂わせるとはなんだ?自分の人生はどうやら女によって狂うのか?それともそもそもはじめから狂っていたのか?狂っているとは一体、なにを以って狂っているとするのか?では世間の正気は一体誰が保証してくれるというのか?

甘いミルクの上に、濃く抽出した珈琲二層に分かれるように注がれている、この宝石のように美しい冷たい飲み物をオ・レ・グラッセという。ミルクが多めに入っていて、その上にほんの少し珈琲の膜が張っているのだが、この珈琲はミルクの有り余る甘さを覆い隠すように苦い。上唇で珈琲を抑えつつ、絶妙に珈琲と甘いミルクを同時に口に入れて舌で混ぜていくという技術がなければ、マドラーやスプーンでしっかりと混ぜて飲むことになってしまうが、それではこの躁鬱入り混じった美しい飲み物の本当の美味しさを味わえているとはいえない。強い甘みと強い苦み、この二つを同時に味わう時、なんとも表現し難い快感が口の中を満たすのだった。

折れそうに細いステムのワイングラスを持つと、しかしそれは折れる様子もなくしっかりと軸があるのがわかる。華奢そうに見えてしっかりとしているのがよけいに彼女のようで少し鼻で笑ってしまうと、なんですか、と訝しまれた。

「僕がもし、いつか居なくなるよと言って本当に居なくなったら、寂しい?」
「寂しい」

濡烏のような黒い髪は風に靡くたびに乳白の肌を見え隠れさせる。横を向いている彼女の目尻が顳顬に向かって切長に伸びていて、まるで池永康晟の美人画のようだった。画家は、こういった顔を見るたびに絵を描きたいと思うのだろう。僕の場合はこうやって心の中に文字で書くのだ。

彼女の透明さが珈琲でずっと隠れたままでいて欲しいと思った。無理に掻き回して透明さがなくならないように、僕だけが飲み方を知っていればいい、飲み干してしまいたいでもなくなってしまわぬようじつと眺めていたい、これは愛だとその時は思った。

オ・レ・グラッセは口の中で膨らんでガムシロップ 特有の甘みを舌に残して消えないまま、甘ったるさがずっと残り続けるので上澄みの珈琲を飲んで、それでも入ってくるミルクの甘さに辟易するふりをしながら、ふとした揺れで混ぜてしまわぬようステムを折れてしまいそうな程硬く持ち直していた。