2022年9月9日金曜日

ウォールフラワー雑記

 「人間というものは、根源的に孤独な生き物だ。その相手も孤独だから、人に左右されることはない」

バンド  ザ・スミスのボーカル、モリッシーは強い人間で、だからこそ一人で生きていけるし、生きていかなければならないことも知っている。だからこそ彼が歌う時流れるように歌うけれどそこには確固たる人間としての軸があってそれが揺れるからこそ美しい。人が孤独なのは間違い無くて、だからこそ一人で生きていかなくちゃと気張る人間はいつか崩壊する。それが素のままできるのは狂人だ。何も気にしない能天気な人間たちはある程度のバランスを他者に寄りかかりまた離れながらうまく年月をかけてやりすごしていく。でもやりすごしたくないのだろう?精一杯生きる、それがしたいのだろう?自分の中に存在する顔のどれが自分らしいかもわからないまま笑顔作って必死で生きているのが精一杯なのだろう?

映画のテーマとは全くミスマッチながら繰り返し登場する"asleep" The Smithを聴きながらそんなことを思った。

ウォールフラワー、壁掛けの花。煌びやかな憧れの世界を見てるだけの人間で、社会に触れることができない、そう思っている男の子が自分が憧れていた人々との交流を通して自らの精神の病と向き合うことができるようになる映画。サム役のエマワトソンとパトリック役のエズラミラーが役にどハマりしていて、というか二人とも素で演技してるかのようなハマり方。だけどその二人がハマってるが故に主役のチャーリー、統合失調(おそらく)持ちのローガンラーマンがひたすらに外側の人間でい続けなければならないような、最後まで壁掛けの花を卒業できてない仲間はずれ状態になっていた。正直僕は、"仲間ができて最高にしあわせな彼の生活"は彼の病気が作り上げた妄想なんじゃないかと思っていたがそんなことはなかった。でも一緒にいたって仲間はずれには変わりがない。そのくせ教師に「最初の友達が先生とか最悪です」みたいなこと言うだろ?いまいちブレてる。というかこの仲間がやっかいで、陰な奴らのグループと陽な奴らのグループのいいとこ取りしましたみたいな存在しない理想のグループなので、そこに一人リアルな存在のチャーリーは入り込めない。映画的すぎるんだよ彼らは。チャーリー、君は余りにも現実すぎる。チャーリーが本当の意味で仲間になるには君もロッキーホラーショーの先頭に立って恥ずかしがらずに歌わなきゃいけない。まるでムーラン・ルージュユアンマクレガーみたいに。象の部屋(サムの部屋でも)でWe can be Hero just for one dayくらい歌わないとこのミュージカルの中には入れないよ。まるでミッドナイトインパリの主人公のようにわけわからず付いて行ってるままなら独りぼっちのほうがいい。

サムはよく悪い男に引っかかるロックガール(この映画に出てくる人だいたいロックよりもゴスい音楽が好きなので全体的にゴスなんだけど)で、義兄のゲイのパトリックといつもつるんでいる、彼氏のクレイグの前では大人しく可愛らしくしているが本来はそんな性格ではないとのことだけど、実際チャーリーの前でもおんなじようなおとなしさなので、彼女には男の前でいい子を演じる癖があってなるほどあばずれって感じ。パトリックはアメフト部の…えーとなんだっけ忘れた男の子と交際してて、親バレして喧嘩するシーンが少し蛇足。別にアメフト部が喧嘩するシーンを主人公が止めるのもなんか、スーパーパワーのヒーローですか?というかんじでなんとなくいじめられっ子の理想の高校生活!みたいなかんじがしてこのシーンはとても嫌いでした。

結局チャーリーはどうしようもなく傍観者、ウォールフラワーはドラッグやってもウォールフラワーのまんま。なんていうか、場の根本的な空気に溶け込めていないからディズニーランド行って帰ってきましたみたいなミスマッチさがある。パトリックみたいな、いい仲介役がいて体験するエンタメと、地で自分で世界に潜り込んで行くのとはわけが違う。友達に勧められて始めたドラッグと自らやり始めたのじゃ重さが違う。

残念ながら俺も社会からしたら壁掛けの花、しかも萎れてしまってグロテスクな花、誰しもが悪趣味だと思いながら誰も捨てたがらないだけ、そこにずっと飾られている。だってこちら側の世界の方が稼げるんだもの、アングラでぬくぬくやってるよりも。

だから、そもそも壁掛けの花なんかではなく鏡なんだ、あちらとこちらの世界は違う。

鏡の中には鏡の中で世界があるから、僕らがあの人は変わりものだと思っても、変わり者の世界ではうまくやれてる可能性がある。美女と野獣で変わりものベルを演じたのはエマワトソンだったな。

チャーリーが仲間に入れてもらえるのはドラッグやってるときだけ、あちら側にいく勇気などないし、映画は映画。世の中には映画が終わった後の続きがある。あのあときっとサムはまた違う誰かと付き合うし、それは残念ながらチャーリーではないだろうし、パトリックはもういない。そもそもサムとパトリックを繋ぎ止めているものがなんなのか、映画では明記されない。片親同士再婚の子の心細さか?

世の中は続いていく、パンク突き通すことができないなら仮面を被り続けた方が人生は楽だ。30歳で終える人生設計なら知らんけど。

この映画を勧めてきた彼女からしたらエズラだけが刺さるのではなくチャーリーもまた刺さるのだ。未知の世界に怯える意気地なし、何故なら彼女もそうであるのに、まるであちら側にいると捉えられるから、おっかなびっくり煌びやかな世界に潜り込んで息苦しさを我慢しながらいつ造花とバレるか冷や汗垂らしながら生きているから。

だから自分より人間下手な男がいると愛したくなるんじゃないのか?違うかな。

 

クリスマスに親からもらった50ドルでプレゼント買うような愛が素敵か?マジで?ばっかじゃねえの。

チンピラと血反吐を吐いて喧嘩して奪い取ったぬるいビール瓶1本、俺だったらそっちの方がマシ。でも人それぞれ。

チャーリーが先生から譲り受けたのはサリンジャーライ麦畑で捕まえてだけど本当名作だからといって春樹とかサリンジャーとか別に青春が悪いわけではないが青臭くてとても食えたものじゃないな、俺は女はよく腐らせてから食べるけれど、狂ってしまった女のほうが面白いしそもそもまともな女には好かれないので…

 

女にもらったタイプライターではなく血塗れの抜け歯で小説を書け。

本当は書くことなんか何もない、書くほどの衝撃を受けた時言葉は溢れるものだから。私たちのことを書いて、という時彼は何を書くだろう?愛の詩なんか書けるのか?自分のことで精一杯の奴が?

mon petit au lait grasse


上唇で抑えるように、苦さを肌の上で感じながら、舌の中に甘いミルクを滑り込ませていく。まるで下着と肌の間に手を潜ませていくように、慎重に、そして愛を込めて飲み込んでいく。言葉は物事と物事との間を進んでいく。あれとこれのあいだ、過去とと未来のあいだ、僕と君のあいだ。これらを縮めるように作用する、または遠ざけるように。グルグルと回って近付けたり遠ざけたりする。だから僕たちは一言一言話す時に神経質にならなければならない。一言一句が自分そのもので、しかしそれぞれが一度口に発して空気中に音として消えていってしまえばはいそれまで溶けていってしまうが、そうなってしまってもそれを発した自分もその中に消え入ってしまっていって何故それを言ったのかは今の自分は全く覚えていない、ということはよくある。

閉店間際、片付をはじめている店員を余所目に彼女と僕はまだ二割も飲みきっていないまま、じつと互いを見つめていた。スピーカーから流れるGSの単調なエイトビートと阿久悠のように糸を引く言葉だけが上滑りしていった。

昭和歌謡の言葉というのはどうも美しい。恋の歌ばかりだけれど、恋とは唯一無二のfemme fatale あるいは"あんただけ""あなたしかいない"であって、現在のスマートフォンを左スワイプで次の人どうぞ、とまるで婚活パーティのような恋愛が常態化した簡素でインスタント、代替可能なパートナーを探す気散じの遊びではない。ファムファタール、自分の人生を狂わせる運命の女。狂わせるとはなんだ?自分の人生はどうやら女によって狂うのか?それともそもそもはじめから狂っていたのか?狂っているとは一体、なにを以って狂っているとするのか?では世間の正気は一体誰が保証してくれるというのか?

甘いミルクの上に、濃く抽出した珈琲二層に分かれるように注がれている、この宝石のように美しい冷たい飲み物をオ・レ・グラッセという。ミルクが多めに入っていて、その上にほんの少し珈琲の膜が張っているのだが、この珈琲はミルクの有り余る甘さを覆い隠すように苦い。上唇で珈琲を抑えつつ、絶妙に珈琲と甘いミルクを同時に口に入れて舌で混ぜていくという技術がなければ、マドラーやスプーンでしっかりと混ぜて飲むことになってしまうが、それではこの躁鬱入り混じった美しい飲み物の本当の美味しさを味わえているとはいえない。強い甘みと強い苦み、この二つを同時に味わう時、なんとも表現し難い快感が口の中を満たすのだった。

折れそうに細いステムのワイングラスを持つと、しかしそれは折れる様子もなくしっかりと軸があるのがわかる。華奢そうに見えてしっかりとしているのがよけいに彼女のようで少し鼻で笑ってしまうと、なんですか、と訝しまれた。

「僕がもし、いつか居なくなるよと言って本当に居なくなったら、寂しい?」
「寂しい」

濡烏のような黒い髪は風に靡くたびに乳白の肌を見え隠れさせる。横を向いている彼女の目尻が顳顬に向かって切長に伸びていて、まるで池永康晟の美人画のようだった。画家は、こういった顔を見るたびに絵を描きたいと思うのだろう。僕の場合はこうやって心の中に文字で書くのだ。

彼女の透明さが珈琲でずっと隠れたままでいて欲しいと思った。無理に掻き回して透明さがなくならないように、僕だけが飲み方を知っていればいい、飲み干してしまいたいでもなくなってしまわぬようじつと眺めていたい、これは愛だとその時は思った。

オ・レ・グラッセは口の中で膨らんでガムシロップ 特有の甘みを舌に残して消えないまま、甘ったるさがずっと残り続けるので上澄みの珈琲を飲んで、それでも入ってくるミルクの甘さに辟易するふりをしながら、ふとした揺れで混ぜてしまわぬようステムを折れてしまいそうな程硬く持ち直していた。

発酵と調理

発酵というのがいつか自分の大きなテーマになるだろう、とは薄々感じていて、発酵なんだよね〜とはずっと口にしていた。

ものには隙間がある。そこに油や、水や、空気や、言葉は入り込む。それは水のように滲み入る時もあれば、粉のように小さな穴を進んでいく時もある。人の五感、六感よりもさらに向こう側の第七官で感じ取られる何かもそこに入り込んでいく。生物の中に無数に存在する細胞だって、粉だって呼吸をしていて、動いている。苔も恋愛をしているかもしれないし、ぐい飲みと金魚だって恋をする。それは我々の認識する恋ではないというだけで。

人と人も同じ空気を吸い、そこにいるものに影響を与えつつ生きている。もしかしたら物というのはそこにあるだけで振動しているかもしれない。心臓駆動する人間などはそれで背後に人がいることになんとなく気付くのかもしれない。なんなら星も存在するだけで振動しているらしく、NASAでその衝撃波を音楽化したものが公開されている

https://soundcloud.com/nasa/juno-crossing-jupiters-bow-shock

発酵というのは生物における"食べて、排泄する"つまるとこ代謝であり、まあいっちゃえばその微生物にとっては糞便(あるいは文脈的には"こやし")なのであり、それが結果的に人間にとって良い影響を与える場合は発酵と呼び、害のあるものは腐敗と呼んでいる。

よく海外のドラッグ合法論争で言及されている

「ドラッグにいいも悪いもなく、ただ彼らは自然界に存在しているだけなんだ。」というやつと同じで、良いか悪いかを二元に決めるのはいつだって人間だ。

ドラッグの良い悪いは本論ではないのでさておき、発酵というのはそういう性質を持っている。して、彼らは物に付着し、あるいは入り込み、大きなものを少しずつ変容させていく。石は風によって、あるいは雨水によって削れたり、擦れたりして形を変えていくのと同じで、それは我々人間が感じられる速度ではなくゆっくりと、しかし着実に変わっていく。

藤枝静雄が書いた『田紳有楽』という小説は、骨董蒐集家の主人が掴まされた偽物のぐい飲みやら器やらを池に沈めておけばなんとなく味も出るだろ、みたいな感じで放り込まれた器や、そこに住む金魚やら、仏やら、はたまた神の偽物やらが出てきて大騒ぎする。

この小説ではそうやって主人の安易な考えに振り回された骨董等が主人を一泡吹かせてやろうなんて画策しながら動き回るが、藤枝静雄のコミカルさと、人間愛みたいなものが感じ取れるが、もしかしたら盗木や宝石など、人間の勝手で振り回された物等はより深い恨みを胎に抱えているかもしれない。

調理は"理"(ものごと)を"調"(ととのえおさめる)と書く。食材たちをあの手この手を使って自分ののぞむ形に動かしていくことは調理ではない。食材はそれぞれなりたい形が決まっていて、手当をして、あるべき姿に調える下僕のような料理人が自分の目指すべきところなのかもしれない。

そこに存在するさまざまなものは、互いに良い影響を与え合っていきましょう、珍妙奇天烈(=oddity)でも良く、ただそこにいるだけで良い。しかし誰かが理を調える必要はある。でなければ荒れてしまう。

先日新しい仲間と知り合った折、酒を飲んだ店にあった『日本の神様カード』というのを引いた。仲間が引いたカードはそれぞれ『高御産巣日神(タカミムスビ)神産巣日神(カミムスビ)』枠を飛び越え遊ぶ神々。自分が引いたカードは『天之御中主神(アメノミナカヌシ)』理を作り、世界を調えた万物の根源の神だった。

結構祈って、願をかけて引いた。万物の神だからすげー!最強じゃん!ということではなく、おそらく理をつくる神が自分のうしろにいる、ということは自分は場を調えつつ、周りの神々がやんややんや遊んでいるのを眺めながら酒を飲め、善哉、善哉と笑っていればよい、ということなんだろうと思っている(失礼だけど、事実この天之御中主神、世界を作ったあと何ら事績を語らずただ姿を隠したと記している)。

僕は人から受け取ったものを、それぞれあるべきところ、かたちに調えていく役目の人間だ、という風に考え始めています。そのままその人の通りで良い時もあれば、時には伝え聞いたことを自らの内にあたため、醸し、最適な形で渡すこと。これ発酵と調理に他ならぬ、と。

これ本当に難しいだろうなと思っていて、あるべき場所、姿を探すとき、自分を本当に消し去らないといけない筈で、本当にその人にとって"あるべき"とはなんなのかについてずっと考え続けるのってものすごく大変な作業で、かつ常に間違っているという疑いを自らに向け続ける必要がある。

あるべきものは、あるべきかたちにただそれ自身の力で少しずつ姿をかえていく。ただ、おそらくそれそのものの力では、ありたいかたちになれないものもいるのだ。”理”を”調”えるとは、そういったものたちに非力な手を差し伸べつづけることで少しずつぼんやりと生していくだろう。