2011年6月26日日曜日

胡瓜、一。

 ひとのねがいは十人十色、薬師、飛脚、八百屋、牛乳屋、魚屋、畳屋、なりたいものはそれぞれあるだろうが、胡瓜の場合どいつもきつも生まれいづるころから夢見て病まぬのは、料亭のねたになることで、みな物心ついた頃には、それに選ばれるような形格好になるべく日々鍛錬を重ねておるのである。とはいえ、「阿」といえば、「吽」というように、胡瓜自身は粒の一つも動かせないもので、料亭におろされるような立派なものになるかどうかは、こんぴら山の農家のじじい、甚吉の手腕に依るところである。毎年毎年このじじいの畑からは見てよし、食ってよしの瓜が育つのだが、それは酔いどれの甚吉の、いい加減に耕したのと、肥撒き、水遣りが偶然に偶然を重ねて効をなしているわけだが、そんな出鱈目な作り方をしておるもんだから、寸詰まりなものや、ばけもの胡瓜がちょこちょこできる。他より小さいからといって実がつまっててうまいというわけでもないし、大きいからといってよく育ったわけでもないので、そういう、アブノーマルな瓜でなしは料亭のねたになりえない。ちょうどいいおおきさで、ちょうどよくそり返り、ちょうどよく実がしまっており、つぶつぶが沢山あるのがうまい。今年の甚吉の畑の、甚吉の家のそばにある畑にはちょうどそういう、しっかり、ねたになりそうな胡瓜が、ちょうど大きな花の下にぶらんと吊られておるので、周りから「はなたれ」と呼ばれておった。



野菜というのは元来世話しない生き物であって、暇と見ると話しかけてくる。そもそも自然界で動けない野菜どもが喋る以外になす事を探すほうが難しいのである。あるとすれば寝ることくらいだが、周りの連中も、もっぱら喋ってばかりいて昼寝なんてものは困難を極める。
「はなたれさん、はなたれさんよ。」
声を掛けてきよったのは前述した胡瓜の内のひとつ、長さっ足らずの寸詰まり、あまりに詰まってしまったものだから先端あたりおよそ陰茎のようで、誰もが陰口にそいつのことを男根呼ばわりしておった。男根は卑屈に笑いを浮かべると、ええ、はなたれさん、ぼかぁあんたがうらやましい、なんでじゃ、ぼけ、いやぁあなたのように、形もよく、ていよくそりかえってきれいな色をしておるのできっと腕のいい板前さんにきらきらにされるにちがいないやぁ、とおもいましてね、そうだろうそうだろう、僕もそう思っておる、わたしも糠漬けなんかにされるよりきちんんと調理味付けされて身なりのよろしい人間様に食っていただきたいものですよ、あほ、貴様はそうだから立派に成長できんのだ、貴様なんぞ糠漬けどころかかぶとのえさだ、こう考えろ、人間が、こんなに綺麗に育った胡瓜様を食わさせていただいておる、そう思うべきだ、しかし、そういう心持ちになるためにはきみぃ、もっとしっかり大きくならなあかんよ、はぁ、そういうものですか、きみもちょっとは体を揺らして、重力というものに実をまかせてみてはどうだね、伸びるかも知らん、わかりました、やってみましょう。男根はそういったことを喋り散らかしたと思うと、茎のしなりをつかってびよんびよんと縦に揺れた。それが、人間のいうちんこを動かしておる姿そのものだったので、俺は笑いを堪えるのに必死であった。
今度はばかでかい、まるでサッカーボールとためをはろうかという巨大なパンプキンがはなたれに話しかけてきた。おまえというのは、色形がすぐれておるからといって、おれの大きさにはかなわんだろう、ひれふせ、ひれふしてみろ。ははあ、あなたの大きさには感服するばかりであります、しかしぼくは瓜として生まれてきてしまった以上ひれ伏すことはおろか、あなたのように地べたに這いつくばることができないのであります、しいてはこのように陰茎のような僕の体をぶらぶらりと揺らすことでお許しを頂きたい限りでございます、と申したところ、周りの胡瓜一同はおろか、パンプキンのなかまうちですら笑い出してしまい、パンプキンは顔を真っ赤にして土に埋めているばかりであった。そもそも俺は懐石料理のねたになりたい、という強い願望はあるが、逆に俺なんか、そんな大層なものに選ばれる程姿格好が恵まれてはいない。自虐体質だな、俺。だからといって、誰かに罵倒されるような筋合いもないのだよ、くそ。だから、俺を褒めるものに対しても蔑むものに対しても惜しみない皮肉を厭わないぜ、なんだってお前ら五体不満足の相手なぞしてやらねばならんのだ、俺はそれこそ最高の胡瓜ではないが、平民どもがサラダにして喰うくらいだったら亭主が「おや、今日の胡瓜は美味しいね。」なんて一言を妻に言うくらいの胡瓜ではある。そもそも俺達胡瓜のようないち野菜風情には固体差など殆どあってないようなもの、あってもそれはおのが決めることではなく人間様が決め付けることであって、もしいただくのが人間でなくリス公かハム公であった場合、うすくてやらかくてまるで芯のない胡瓜がうまいと感じられるかもしれないし、あのちびででぶな男根やろうも、蟋蟀に食わせりゃ旨いというかもしれないのだ。そりゃ俺だって毎日あの甚吉が撒く何十年井戸の奥底で澱んでいた水よりかは、あそこに見える霊峰富士の雪解け水のが旨いだろうとは思うが、五体不満足の胡瓜どもは甚吉がくれるそれをうまいうまいと云いながら飲んでいるじゃあないか、あほ。グルメグルメというとるあのお化けパンプキンなんて地べたにおるから、自分の飲んでる水がどこから来ておるのかも知らない。その癖あいつは「いやー矢張り甚吉の水はセンスがいいね、こう、スカッとサワヤカというかなんというかこう、それでいて甘味がある。俺くらいのグルメ、もし来世人間にでも生まれ変わったなら水一つにも俺はこだわってやるね、ああ。」なんて云ってるもんだから誰も事実を教えてやらない。事実を教えてやる奴が一人でもおればあいつはこんなに他の奴にいちいちケチをつけるような悪い奴ではなくなると思うのだが、如何せん彼の生き方がスカッサワヤカしないものになってしまうことを懸念して誰も云わない。基本的にこの畑の奴らはいい奴だ。といっても俺も前世の記憶があるとか、以前他の畑におったとかそういう訳ではないのだけれど、なんとなくそんな気がする。以前甚吉が酔っ払って俺達に日本酒を撒いた事があったが、胡瓜一同は根っこを通してきちんと皆に行き渡る様に分配していた。他の種類はどうだか知らないが、皆でたのしくぎゃあぎゃあわめき散らしていたので、きっと皆行き届いていたに違いない。待てよ、そのときパンプキンは一人酒が来なかったといって文句たらたらだった記憶がする。何分その時の事は酔っ払っておったので詳しくは覚えていない。その時最初で最後であろう酒の味、そして宿酔というのを初めて味わったのだが、此れほどに素晴らしいものは無かった。というのが、まず起きた時に、朝の光がいつもよりやけに輝いて見える。何事か辺りを見回すと、目に入る総てがきらきらと輝いていた、まぁ、俺の目が何処にあるかとかそういうことは置いて、太陽があかるい、雲はしろい、大地はみずみずしい、水たまりが光を反射していて、黄色。まるで好青年のように辺り総ての野菜に朝のご挨拶でもして差し上げよかなと思うくらい!ワンダホー、ビュティフォー。もしこんな思いがまた出来るくらいだったら、俺は来世は人間になりたいなと思うんだ。それも、五体不満足ではなくて、ある程度顔格好の整ったある程度の人間に。嗚呼、人間になりたいな、人間、人間。人間ていいな。酒が毎日飲めて、体を動かせて、遊べて、俺達野菜の殆どを喰うことができて、そして生殖行為を快楽と供に自ら行うことができるという、人間いいことだらけじゃないか、畜生。俺達野菜はおしべがどうとかめしべがどうとかいう受粉でしか生殖行為を行うことはできないし、そもそもふらふらよたよたと彷徨い飛んできた何処の馬の骨かもわからんような花粉と生殖しなければならないのだ。無論、行為は終始無言でおこなわれ、お互いやらなければならない仕方ない義務労働を終えた虚無感に包まれてそれを終えるに違いないのだ。その点人間は愛の有無はとりあえず、生殖したいと思えるような異性を見つけ、生殖行為の対象というものを選ぶことが出来る、なんて素晴らしいのだろうか。嗚呼俺は胡瓜なんて厭だ、人間、人間に生まれ変わりたい。人の女の、おまんこに入れてみたい、快楽を、感じてみたいよ、ああ。俺はしがない胡瓜で、胡瓜の中では割としっかりした身持ちのある「はなたれ」だが、それでも胡瓜だ。喜びがあるとしたら、懐石料理になるくらいじゃないかね。懐石料理になれたら、神様、来世で人間にして下さるというのはどうでしょうか。よし決めた、俺は懐石料理になってやる、それまでにしっかり鍛錬を重ね、この畑いちの胡瓜になってやろうではないか。

頑張る


「嗚呼、もう死んじまいてえ!」

五杯目の電気ブランを飲み干すと、俺は大分ふらふらしてきて、こうなってくるといよいよまともな事は云えなくなってくるのであって、話題は女と生足と、あとは乳房と酒、あれ、セックスはもう云ったかな、とにかく、そんな感じの事が頭の中を飛び回りはじめる。昔わたパチなんて駄菓子があったが、あれが脳内で弾けまくってくれてると解釈してくれていい。

今日は誇りある禁酒生活の一日目、勝って来るぞといさましく、家を出たのがこのザマだ。友人の友人のそのまた友人くらいの男に遭遇し、ものの三分話すうちに酒を飲みに行くこととなった。どんなに赤の他人であっても酒という友人が仲介してくれる限り、話のねたが尽きる事は無い。

「じゃあのみにでもいこか」
「あそこの店はいいぜ、なにせ時計がないし、窓もないから朝か夜かは勿論、晴れか雨かもわからない」
「そりゃ、ノー天気なことで」
ロータリーで二人でケタケタ笑っていた。結局、そのノー天気な店とは全く違う、いつものワンコインバーに入った。

「わかる、わかります、俺も死んじまいたいですよ」
設楽と名乗るこの男も俺とペースを同じく五杯目の山崎のロックを口の中に流し込んで呟いた。
「でもね、嫌なことでもいい事でも、自分の都合のいい様に考えていいんです、それが、生きる為の力なんです、南に帆は向くんです」
「それはつまり?」
俺は指でマスターに"同じの"の合図をする。
「金八先生の、ホラ、人と云う字がどうのこうのって、あれ嘘ですよ。人ってのは一人でいいんです、ほらっ!」
と云うと彼は席をたつと大きく股を広げて仁王立ちしたのだった。設楽はおかっぱ頭、スキニーにぴったりしたTシャツを履いていて、その人の字がまるでマッチ棒のようでひどく滑稽だった。
「じゃあ二人いるときは、人じゃなくて何になるんだ?」
「それはね、セックスしかないんですよ、セックスはベッドでするでしょ、あと、服脱ぐでしょ、すると、こう、ね。」
そう言うと設楽はマスター、ペン、といって紙にペンで”肉”と書いた。
「おおーッ!」
俺は椅子から立ち上がり設楽と固く握手を交わした。
「すごいよッ!すごいよあんたはッ!」
酔いと驚きで大声が出たつもりだったが、受験勉強で頭をぱーにした大学生達のヴォリュームはそれすらかき消してしまう様だった。
「まあ、何も考えないで生きてた方が人生楽しいんじゃないですかねェ、成仏しませんよ」
この男、まるで御仏のような悟りの心を持つ男だ。素晴らしい。”明日の昼飯は何を食おう”なんて他愛もない考え事でさえ6分経てば”もう駄目だ、死んでしまおう”になってしまうくらいネガティブな俺にとって彼の楽観主義は九死に一生、蜘蛛の糸だ。ただ、俺一人がよじ登るにしても罪業の多さで糸が切れてしまわないか知らん。
「でもどうせならセックスも酒も、ドラッグも、やりきってから死にてえなあ。」
「だから、毎日酒飲んで薬やって、セックスしましょうよ。」
それから俺達はなんとなく、少し黙った。

俺達はもう純粋じゃない。かつては絵本を読み聴かせられていた子供だったかもしれない。折り紙折っておててつないで、それが一生続けばいいと思っていた。どうだろう、今、俺達は骨折り損だ。繋いでいるのは手と手じゃなくて、損得に繋がれて生きているのだ。
コップの中の電気ブランを一気に飲み干した。後はたぶん、大声で拓郎を歌った。

”人間なんて ららあららららららあ”

バーの椅子に寝転んで、おそらく十回目あたりの”人間なんて”辺りで俺は、疲れて眠った。

「てめえはっきりしやがれ、やったのか、やってないのか!」
「うるせえそんなもの覚えてないものは覚えていなんだ。」

夢の中で俺は、彼氏のいる女に手を出して彼氏に殴られると云う愚行に走った様だった。世の中にこんな恥な生き方があるか、俺はまだまだマシなほうだ。下には下がいる。もうちょっと生きていようと思って目を開けた。

2011年6月7日火曜日

追われてないと 逃げるたのしみもない
いつか死ぬこと 生きているのがたのしい

枯れた気持ち携えてどこに向かうの
荒れた砂漠 泳いでくイメージ

さあ僕の目の前に
さあ両手を叩いてわらって

騒いでいるのが見えるだろう
走っているのが見えるだろう
踊っているのが見えるだろう
愛しているのが見えるだろう

みんなおれさ みんなきちがいさ

2011年6月2日木曜日

逃走



「私は、今までずっと、生真面目だったんです。そろそろ羽を伸ばしたいの、違う世界が見たいの。」
優子がウーロンハイを片手にそう云った。
「奥寺さんは私の知らない遊びを沢山知っていそうですよね。」
俺は瓶のモヒートが空になるのを口で確かめて、答えた。
「優子ちゃんも、知りたい?」
頭の中に流していたBGMはぎゅ、ぎゅいーんと浅井健一のリトルリンダに変わり、キザを気取るに調度いい塩梅の
優子は数秒間の沈黙の後、十数センチ程近付き、こくと頷いたので、俺は大きく口を開けてそのまま優子を飲み込むに至った。彼女の神経がぎこちなく麻痺していき、毒牙がついに下半身まで覆い尽くすともう唯の操り人形になって、俺の誘導するがままにモーテルへ。

-BGM変更、WE ARE THE CHAMPIONS/QUEEN -

疲れ果てて眠っている女を尻目にモーテルを抜け出しズボンのポケットから煙草を抜刀すると、外は霧雨が降っていて、クルッとそれを鞘に戻さねばならなかった。ああ、ちくしょう、ついてねえのな。どうしようもねえな、俺、どうしようもないな、神様。どうしようもない男にはどうしようもない女が寄り付くと云うが、どうしようもない男にこそ今まで真っ当に生きてきた、親の云うままお受験、それも名門女子高校女子大学ですみたいな女が怖いもの見たさでついていく事を俺は知っている。ホラー映画みたいなもんだよ、見たくないけど見たいんだ。それにその夜不安と憔悴で眠れなくなる事だって餓鬼じゃあないんだから知っているはずで、それでも見てみたい馬鹿は沢山いる。でもきっとそれは真面目だから、と云う事がつまりどうしようもない女になる事の因果の一つなんだろうと思う。なあに、俺も中学までは割と純粋な好青年だったのだ。それが今となっては道楽色漬けピンク色の阿呆になって、最早東京のあらゆる遊技場で奥寺富実雄と聞いていい顔をする奴はいない。それは別段俺が喧嘩が強くて恐ろしいとかそう云う訳では無くて、ひょこふらりと現れては人様の女だろうがなんだろうがおおよそ女と名の付くものは大抵を引っ掛けて行くからで要するに俺は同性からはとことん嫌われる所謂こましで、まあ別にそれを悪いとも思っていない。と云うのは今の暮らしに充足を感じているからであって、今から粛正、公明正大な人間になろうなんて云う気は全くない。雨をやり過ごして、大竹の家に向かった。といってもまだ明け方で、麻雀中毒の大竹がこんな時間に起きている筈が無いので、なんとか奴を起こしてあいつの借りているぼろ部屋に入れてもらうべく十数回程携帯を鳴らしているのだが、一向に出る気配が無い。この大竹と云う男は非常に大学生らしい奴で、滋賀から東京の大学に入り、一人暮らしを始めたのだが親からの仕送り約十数万、その金だけで生活している上、酒はやる、煙草は吸う、女好き、おまけに博徒であると云う模範的大学生、詰まる所生きている価値があるのかどうかすらわからない駄目人間なのである。俺は酒もやるし煙草も吸うし女好きであるが博徒でないと云う一点を頼みの綱にこいつとは違う。俺は百歩譲って駄目人間ではない。しいて云えばどうしようもない男ではあるかもしれないが、大竹よりは俺の方が幾分か優良な人間であると云えるだろう。そんなこんなで部屋に辿りついたが、矢張りというか当然鍵が掛かっていて、押しても引いてもうんともすんとも云わぬ。仕方ないのでチャイムを押すがそれでも音沙汰無い。しかし俺はここで諦める様な男ではない、チャイムをかの十六連打高橋名人ごたる押し続けた結果約125打目程で鍵があき、目が半開いている大竹が出てきて云った。

「何。」
「泊めてくれ。」
「いいよ。」

数時間程眠った。




昼頃に二人とも目が覚めてラーメンを食いに行く事となり、昨日あった情事について話したのだが、

「お前それは、きざだよ。」
と大竹は蔑んだ目で呟いた。
「きざかなあ。」
「きざだね。」
「でもそれくらいがいいんじゃない。」
「いや、きざって云うのは気、障、って書くんだから、気にさわるでしょう、やっぱり。」
「じゃ、お前だったらどう答えるんだよ。」
そこで俺は優子の声真似をして、大竹さんは私の知らない遊びを沢山知ってそうですよね、きゃ、なんて演技をした。
「うーん、いや、それしか無いね、残念ながら。」
「だろ。」
無言のまま麺を啜った。試しに入ってみた知らないラーメン屋だったが、とんこつラーメンと銘打っているくせに背脂の味しかしないでいやがるし、厭に店員の態度が悪くて、”二度と来ねぇよ”というアピールとして半分以上残した上にごちそうさまを云わずに店を出た。二人とも即座に煙草に火を付けた。
「不味かったな。」
「不味かったね。」
大竹のブラックデビルのバニラの香りが余計俺を憂鬱にさせた。
「でもさ、お前、優子ちゃんだっけ、そんなに遊び沢山知ってるの、本当に。」
「いや、別に。」
優子と初めて会ったのは”80年代J-POP”セッションで歌を歌った時、優子はキーボードだったのだが、下手糞ったらありゃしなかった。中森明菜の"飾りじゃないのよ涙は"をやったとき、あの曲は最初にドラムがドドドドッときてそこからイントロがキーボードで入るのだったが、優子のそこんとこの入りがなかなか上手く行かず、4回程やり直した末結局上手くいかずなあなあでもう歌に入っちまうことにした。そんな糞キーボーディストだったのけれどその後の打ち上げで何故か俺の所へ歌を褒め散らかしに来た。そこで趣味だの何だのについて語っていたらどうやら興味を持ったらしく飲みなおしませんかと誘いやがった。優子は別段可愛くないわけではない、と云うか優子というのは本名ではなくて、最近ぶっちぎりで売れているアイドルAKB48の大島優子に似ているからであって、寧ろ本名は印象に残っていなかった、まあつまり自慢になるが優子はアイドル並に可愛いのだ。だから、実はホテルを無言で立ち去ったのも、サヨウナラと云う訳ではなく、演出であって、今日の八時にまた会おうという趣旨の置手紙を残している。その事も大竹に告げると矢張り大竹は
「きざだ、気持ち悪い。」
と云って俺を蔑んだ。
「きざかなあ。」
「それぐらい自分でわかるだろ。」
「うん、まあな。」
そこからは大竹も用事があると云ったので、サヨナラして、約束時間、八時までの約五時間を、西村賢太の苦役列車でも読みながら待つことにした。





約束通りの場所に約束通りの時間、これを決して間違えず遅れずと云うのが俺の中でのルールだ、と云ったら俺の友人には"何がルールじゃ、遅刻常習犯のお前が云うな"と怒られてしまうかもしれないが、諸君、ルールとは破られるからルールなのだ。極力俺は時間通り規則通りに行動しているつもりだが、どう云うわけか時間が知らないうちに急ぎすぎて置いてけぼりを食らってしまう事が多くて、つまりこれは俺の責任と云うよりかは時間の責任であって無罪放免を許して欲しい。なんてくだらない事を云っているとただでさえ少ない友達が殊更に寄り付かなくなってしまうのでこの場を借りてお詫び申し上げたい。ごめんなさい。次からはしっかりと時間通りに向かいます。そう、次から。というのも今俺は電車の中であって、今は八時つまり約束時間丁度なのである。今回は駄目でした、次から気をつけます。なんとか馬場に着いて、ビックボックスの前に走っていく。遅れている、走っているのは苦痛でしかなかったので、歩く。が、しかし、ビックボックスまであと50mという所で走りはじめ、ビックボックスの前の優子の所へ辿りつき、如何にも遅刻を詫びるかのごとく息も切れ切れで、ごめん、と云うと優子は
「いいよ、そんな待ってないし。」
と云うたのであった。作戦成功である。ところが問題はカフェに着いた時起こったのである。
「ねえ、今日遅れた罰に、面白い遊びか、一発芸か、してよ。」
俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。そう、この女、俺にそういったものを期待していたのだ。もう一度云おう。俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。なんということだ、もう一度、もういいか。
「落語とか、好きだったよね。やってみせてよ(笑)」
確かに落語は好きだし都都逸は好きだし猥歌俳句狂言スカッシュDJ韓国アイドルの踊り物真似その他ありとあらゆるものが好きで最近は南京玉すだれにも興味を持ち始めている俺だが、これは一瞬にしてやばいと思った。カフェやぞ、カフェ。公衆の面前やぞ。しかも馬場のカフェやぞ。もしそんな事をやってしまったら、万が一このカフェの中にうちの大学の学生が一人でもいるとしたら、あの奥寺富実雄は女の子の待ち合わせに遅刻した罰としてカフェで一発芸をやってカフェを凍りつかせたんだぜなんて語り話が大学中に広まり、そうなればもう末代の恥晒し、生きていく訳にはいかないのである。なんとか話を逸らしてそんな事はさせないように努めたが、全くもってそれが上手くいくことはなかった。
決心、俺はやります、やってやります。未来に出会う息子よ、孫よ、孫の孫よ、許して下さい、俺はやります。こんな俺を許して下さい、奥寺家の駄目人間を許して下さい。俺は敢えて太宰治のとある小説からこの言葉を引用させて頂く。
「気の毒だが正義の為だ!」
俺は床に置いてある自分のバッグを掴み取りカフェの出口目指してぶるんと両腕を大きく振って矢の如く走り出たのだ。走った走った走った走った走った走った走った!今何一つ考えていないのだ俺は!ただわけのわからぬ力に引っ張られて走っているだけだ。いつもの高田馬場の風景が光のように通り過ぎて行く。嗚呼、俺は今メロスだ。メロメロメロス。今ならお前と抱擁が出来そうだ。霧雨はもう降っていない、全てが、万物全てが俺を祝福してくれているように見える!セックスより、ドラッグより、酒の酩酊より、気持ちいいものが今俺の全身を満たしている!さあ、どこだセリヌンティウス!俺を力一杯殴ってくれ!