2014年12月12日金曜日

電車


朝がはじまるのはきっと最初の電車がはじまってからで、それからというもの太陽の光は道を歩いていくサラリーマンを輝かしく照らすためのものだし、社会そのものがその光を浴びてきらめきだすからまともに生きていけない僕たちは建物の影から影を逃げ回るように、不快害虫のように人目を避いて歩いて行かなければいけないのだ。だってビルとビルを隔てて並んでいる道路や店やその店で売られているなにもかもは社会のなかで生きていく人たちのもので、何ひとつ僕のために売られていやしないのだ!僕がレジの前に立つと店の売り子たちは品定めをして、「おまえみたいなやつに売るようなものなんてなにひとつないね」と吐き捨てて目をそらすのだ。あの店の冷蔵庫に並ぶ缶は、その中身をどれがどういった製法で作られていてなどと詳しく知りたがるような人間のためにではなく、それをただおいしいと思って缶のまま飲み干す人間のために作られているのだ。もしくは、人に話すために三日もすれば忘れてしまえるトリビアとしてそれを知っていたい人間ばかりだ。それにしても道行く女性たちの艶めかしいこと!しかし彼女たちが望んでいることは彼女たちを喜ばせ賞賛してくれるような言葉だけなのだ。昨日のネイルの話。今まで知り合った男の話。くだらない話を寄り添って聞いてくれる男だけがほしい。壁のような男だ。彼女たちは化粧室のなかだけで鏡を見ているのではない、知り合いの男たちや女友達でさえも鏡なのだ。そのような生き方ができない僕にとって、彼女たちはショーウィンドウでしかない。決して手に入ることのない二次元的な生き物にしかすぎない。「おまえは相手から何かを得ようとしていない」誰かが未来で言った。すべてが平面的で触れることすらできないこの世界のなかで誰の目にもとまることない廃棄物のなかに塗れながら、いつか僕も廃棄物になってしまうのかと恐怖におびえているのだ。もうどこへも行き場がない。行き尽くしたわけではなく、ただ途方に暮れている。どれだけ歩いても本の上を歩いているようにたくさんの美しいものたちに触れることもできず、感じることもできずにただ眺めているだけで、やがて目さえも霞み、見ることすらできなくなっていくのだ。歩いても歩いても状況は好転しない行き尽くせないのはどこまでも行った気になっているだけかもしれない。慰めに手巻きたばこの紙を出してみる。葉を巻いて吸い終わってしまえばまた僕から去っていく灰となる。燃えて落ちる灰。自分で失くしていくくせに、離れていくなんて…そんな言い方はないだろ。高架線の下ではよくわからない機械が並んでいて、それらさえ線でつながっていた。それではじめて彼らは役割を為すのだろう。彼らのうちひとつがなんらかの故障でおかしくなってしまえばすぐさま電気屋だの、整備屋だの、取り替えていく。正常じゃないものは廃棄される。やがてゴミ捨て場で集まった正常でない機械たちは、線でつながる機械たちよりも親密にその身を寄せ合うけれどつながってなどいないし、互いの気持ちなど確かめようもないのだ。いずれ運ばれていくまで長い年月を過ごしたとして、挙句の果てにスクラップにされて一生離れることがなくなったとして、彼らの心は満たされるのだろうか?そもそも彼らに心はあっただろうか。そして、彼らほど俺は何かを考えているのだろうか。きっと彼らだって俺がこんな風に勝手にあれこれ考えているのをよくは思わないだろう。それこそ、俺が、誰かしらから向けられる奇異の視線を嫌がるように。朝日はより激しく罵倒をはじめた。出ていけといわんばかりに差し込む光。だがどこから出ていけというのだろう。あまりにもたくさんの場所から出ていかされてどこへも行き場がないというのにだ。いったいどこで閉じこもっていきていれば社会から蔑まれずに済むというのか。社会はあまりにも「希望」や「成長」、「理念」、「正義」といったものへの信仰を求めていて、片手でこぼれてしまわない程度のこれぽっちの幸せだけ抱えて生きていたいというような人間の肩を平気で揺さぶり、そのしずくも残さないようにしてしまう。そのしずくが無くなってしまってもなお揺さぶり続け涙だって枯れ果てるように僕の心の器を傾けつづけるのだ。僕のなかのさまざまな機械の配線が途切れはじめ故障したようになって、視界に砂嵐があらわれはじめる。いや、これは社会に砂嵐が吹いているのだ。なにも、みえるはずない。こんなせかいで、こんなまちで、荒々とした白黒の粒子しかみえない。やがて見えなくなっていくなにもかも、心に焼き付けておきたい風景などなにもない。

町をさまよい歩いて、目もとうぜん白黒で見えなくて、眠る必要もなかった。目がなにも見えないのだから目を閉じているのといっしょで、それでも目をあけていなければどこからか人がやってきて俺に蔑みの目線をよこしてくるかわからない。俺はつねに自分を守っていなければならなかった。夢というのはもっとも恐ろしくて、夢の中で俺はいままで見たものや聞いたものすべてに蔑まれるのだ。夢のなかの俺はもっとも俺を蔑む。いままで見てきたすべてを使って俺を罵倒し続けるのだ。俺が裁判長として行われる裁判に被告人俺として出頭し、そのくせ弁護人はだれひとりとしていない!傍聴人は裁判官の死刑宣告を待っている。もはやこの街では裁判傍聴はエンターテインメント。裁くなんて都合のいい言葉で、集団で俺を罵っているだけだ。しかし、俺のなかに俺を罵倒する社会があるのだ。心のなかで居場所を探しもとめるけれど、どこにだって目があってくすくすと俺のことを笑っていて、だからこそ日の光に照らされようものなら映し出された俺の姿をみて彼らは大笑いをするのだ。どこにいたって黄色と黒の二重線で「立ち寄らないでください」と叫び拒絶する。電車には乗ることはなかった。ホームの黄色いベンチでただひたすら人を眺めていた。駅の人々は俺を蔑みの目で見ない。彼らはなにかを見る余裕などないのだ。彼らは行き場所のある人たちで、その目的地に向かって全力なのだ。余計なものは見る必要がない。もしくは画面の中に夢中で現実世界、隣に座っている人間に興味なんてないのだ。しかし、そうした生き方こそがこの社会を生き抜くすべだということは俺だってよくわかっている。おそらく彼らの人生は素晴らしいものなのだ。ありあまる日常を予定や仕事で埋め尽くしてなにも考えないようにする人生こそがきっと。電車がまた到着して、サラリーマンやOLを吐き出しては吸い込んでいく。行き場所に着いてはまた新しい行き場に向かい、彼らは彼らの信じる「希望」や「成長」に向かって忙しく生きているのだ。彼らは何よりも時間がない。時間がないことが幸せなのだろう。俺のように時間が有り余ってただこうして茫然と座っていることは彼らには考えられない苦痛に違いない。彼らは俺のような人間をうらやましいそぶりをして蔑んでいるのだ。電車がまた到着して、サラリーマンやOLを吐き出しては吸い込んでいく。吐き出しては。吸い込んで。吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで……。