2011年3月23日水曜日

「胡瓜」

ひとのねがいは十人十色、薬師、飛脚、八百屋、牛乳屋、魚屋、畳屋、なりたいものはそれぞれあるだろうが、胡瓜の場合どいつもきつも生まれいづるころから夢見て病まぬのは、料亭のねたになることで、みな物心ついた頃には、それに選ばれるような形格好になるべく日々鍛錬を重ねておるのである。とはいえ、「阿」といえば、「吽」というように、胡瓜自身は粒の一つも動かせないもので、料亭におろされるような立派なものになるかどうかは、こんぴら山の農家のじじい、甚吉の手腕に依るところである。毎年毎年このじじいの畑からは見てよし、食ってよしの瓜が育つのだが、それは酔いどれの甚吉の、いい加減に耕したのと、肥撒き、水遣りが偶然に偶然を重ねて効をなしているわけだが、そんな出鱈目な作り方をしておるもんだから、寸詰まりなものや、ばけもの胡瓜がちょこちょこできる。他より小さいからといって実がつまっててうまいというわけでもないし、大きいからといってよく育ったわけでもないので、そういう、アブノーマルな瓜でなしは料亭のねたになりえない。ちょうどいいおおきさで、ちょうどよくそり返り、ちょうどよく実がしまっており、つぶつぶが沢山あるのがうまい。今年の甚吉の畑の、甚吉の家のそばにある畑にはちょうどそういう、しっかり、ねたになりそうな胡瓜が、ちょうど大きな花の下にぶらんと吊られておるので、周りから「はなたれ」と呼ばれておった。


野菜というのは元来世話しない生き物であって、暇と見ると話しかけてくる。そもそも自然界で動けない野菜どもが喋る以外になす事を探すほうが難しいのである。あるとすれば寝ることくらいだが、周りの連中も、もっぱら喋ってばかりいて昼寝なんてものは困難を極める。
「はなたれさん、はなたれさんよ。」
声を掛けてきよったのは前述した胡瓜の内のひとつ、長さっ足らずの寸詰まり、あまりに詰まってしまったものだから先端あたりおよそ陰茎のようで、誰もが陰口にそいつのことを男根呼ばわりしておった。男根は卑屈に笑いを浮かべると、ええ、はなたれさん、ぼかぁあんたがうらやましい、なんでじゃ、ぼけ、いやぁあなたのように、形もよく、ていよくそりかえってきれいな色をしておるのできっと腕のいい板前さんにきらきらにされるにちがいないやぁ、とおもいましてね、そうだろうそうだろう、僕もそう思っておる、わたしも糠漬けなんかにされるよりきちんんと調理味付けされて身なりのよろしい人間様に食っていただきたいものですよ、あほ、貴様はそうだから立派に成長できんのだ、貴様なんぞ糠漬けどころかかぶとのえさだ、こう考えろ、人間が、こんなに綺麗に育った胡瓜様を食わさせていただいておる、そう思うべきだ、しかし、そういう心持ちになるためにはきみぃ、もっとしっかり大きくならなあかんよ、はぁ、そういうものですか、きみもちょっとは体を揺らして、重力というものに実をまかせてみてはどうだね、伸びるかも知らん、わかりました、やってみましょう。男根はそういったことを喋り散らかしたと思うと、茎のしなりをつかってびよんびよんと縦に揺れた。それが、人間のいうちんこを動かしておる姿そのものだったので、俺は笑いを堪えるのに必死であった。
今度はばかでかい、まるでサッカーボールとためをはろうかという巨大なパンプキンがはなたれに話しかけてきた。おまえというのは、色形がすぐれておるからといって、おれの大きさにはかなわんだろう、ひれふせ、ひれふしてみろ。ははあ、あなたの大きさには感服するばかりであります、しかしぼくは瓜として生まれてきてしまった以上ひれ伏すことはおろか、あなたのように地べたに這いつくばることができないのであります、しいてはこのように陰茎のような僕の体をぶらぶらりと揺らすことでお許しを頂きたい限りでございます、と申したところ、周りの胡瓜一同はおろか、パンプキンのなかまうちですら笑い出してしまい、パンプキンは顔を真っ赤にして土に埋めているばかりであった。そもそも俺は懐石料理のねたになりたい、という強い願望はあるが、逆に俺なんか、そんな大層なものに選ばれる程姿格好が恵まれてはいない。自虐体質だな、俺。だからといって、誰かに罵倒されるような筋合いもないのだよ、くそ。だから、俺を褒めるものに対しても蔑むものに対しても惜しみない皮肉を厭わないぜ、なんだってお前ら五体不満足の相手なぞしてやらねばならんのだ、俺はそれこそ最高の胡瓜ではないが、平民どもがサラダにして喰うくらいだったら亭主が「おや、今日の胡瓜は美味しいね。」なんて一言を妻に言うくらいの胡瓜ではある。そもそも俺達胡瓜のようないち野菜風情には固体差など殆どあってないようなもの、あってもそれはおのが決めることではなく人間様が決め付けることであって、もしいただくのが人間でなくリス公かハム公であった場合、うすくてやらかくてまるで芯のない胡瓜がうまいと感じられるかもしれないし、あのちびででぶな男根やろうも、蟋蟀に食わせりゃ旨いというかもしれないのだ。そりゃ俺だって毎日あの甚吉が撒く何十年井戸の奥底で澱んでいた水よりかは、あそこに見える霊峰富士の雪解け水のが旨いだろうとは思うが、五体不満足の胡瓜どもは甚吉がくれるそれをうまいうまいと云いながら飲んでいるじゃあないか、あほ。グルメグルメというとるあのお化けパンプキンなんて地べたにおるから、自分の飲んでる水がどこから来ておるのかも知らない。その癖あいつは「いやー矢張り甚吉の水はセンスがいいね、こう、スカッとサワヤカというかなんというかこう、それでいて甘味がある。俺くらいのグルメ、もし来世人間にでも生まれ変わったなら水一つにも俺はこだわってやるね、ああ。」なんて云ってるもんだから誰も事実を教えてやらない。事実を教えてやる奴が一人でもおればあいつはこんなに他の奴にいちいちケチをつけるような悪い奴ではなくなると思うのだが、如何せん彼の生き方がスカッサワヤカしないものになってしまうことを懸念して誰も云わない。基本的にこの畑の奴らはいい奴だ。といっても俺も前世の記憶があるとか、以前他の畑におったとかそういう訳ではないのだけれど、なんとなくそんな気がする。以前甚吉が酔っ払って俺達に日本酒を撒いた事があったが、胡瓜一同は根っこを通してきちんと皆に行き渡る様に分配していた。他の種類はどうだか知らないが、皆でたのしくぎゃあぎゃあわめき散らしていたので、きっと皆行き届いていたに違いない。待てよ、そのときパンプキンは一人酒が来なかったといって文句たらたらだった記憶がする。何分その時の事は酔っ払っておったので詳しくは覚えていない。その時最初で最後であろう酒の味、そして宿酔というのを初めて味わったのだが、此れほどに素晴らしいものは無かった。というのが、まず起きた時に、朝の光がいつもよりやけに輝いて見える。何事か辺りを見回すと、目に入る総てがきらきらと輝いていた、まぁ、俺の目が何処にあるかとかそういうことは置いて、太陽があかるい、雲はしろい、大地はみずみずしい、水たまりが光を反射していて、黄色。まるで好青年のように辺り総ての野菜に朝のご挨拶でもして差し上げよかなと思うくらい!ワンダホー、ビュティフォー。もしこんな思いがまた出来るくらいだったら、俺は来世は人間になりたいなと思うんだ。それも、五体不満足ではなくて、ある程度顔格好の整ったある程度の人間に。嗚呼、人間になりたいな、人間、人間。人間ていいな。酒が毎日飲めて、体を動かせて、遊べて、俺達野菜の殆どを喰うことができて、そして生殖行為を快楽と供に自ら行うことができるという、人間いいことだらけじゃないか、畜生。俺達野菜はおしべがどうとかめしべがどうとかいう受粉でしか生殖行為を行うことはできないし、そもそもふらふらよたよたと彷徨い飛んできた何処の馬の骨かもわからんような花粉と生殖しなければならないのだ。無論、行為は終始無言でおこなわれ、お互いやらなければならない仕方ない義務労働を終えた虚無感に包まれてそれを終えるに違いないのだ。その点人間は愛の有無はとりあえず、生殖したいと思えるような異性を見つけ、生殖行為の対象というものを選ぶことが出来る、なんて素晴らしいのだろうか。嗚呼俺は胡瓜なんて厭だ、人間、人間に生まれ変わりたい。人の女の、おまんこに入れてみたい、快楽を、感じてみたいよ、ああ。俺はしがない胡瓜で、胡瓜の中では割としっかりした身持ちのある「はなたれ」だが、それでも胡瓜だ。喜びがあるとしたら、懐石料理になるくらいじゃないかね。懐石料理になれたら、神様、来世で人間にして下さるというのはどうでしょうか。よし決めた、俺は懐石料理になってやる、それまでにしっかり鍛錬を重ね、この畑いちの胡瓜になってやろうではないか。







体中が痛い。無理なトレーニングはしてこなかったはずで、その証拠に俺の身体には傷一つついていない。だって体に傷が付いたら一貫の終わり、どんなに中身が美味くとも傷の付いた野菜など板前がイエスと言うだろうか、否、言わない、そもそも板前さんはイエスとは言わない。彼が首を縦におっ振るところを見なければ俺のこの、青の棒切れ、水の果実、胡瓜としての生涯に意味等見出せぬ。とにかく体は傷ひとつ無い。詰まるところこれは成長痛と云う奴で、懐石料理になるよう決心したあの日以来ひたすら痛みを我慢し続けてきた。周りの友人どもからも、身が引き締まっているとか、ふったちのねずみには、あんたみてえな胡瓜、俺は百年生きてきたが見たことねえぜ、うまそうだ、俺が食っちまいたいくらいだがあんたにも夢ってもんがあるんだろ、応援するぜと鼓舞叱咤激励を受けたが、まあねずみにそんなことは言われたくないとは心のどこかで思った気がする。あの時はちょうど夕暮れがオレンジ色で、オレンジっつってもパンプキンの奴みたいなきたねえオレンジでなくて、まぶしく輝いてる感じのオレンジが俺達を包んで、こりゃもうここでカットしてもいい映画が取れるのじゃないか、よし、クランクアップお疲れ様、なんて、そうはならないよな、まだ、俺が料亭の板前に美味しく調理されるその瞬間まで読者諸君には見届けて貰わねばならぬ。その為に、また自分の夢の為に努力したその結果がこの痛みと云うわけだ。云わば男の勲章、嶋大輔、ヤンキーパンク魂ここに極まれり。そういえば若い頃は胡瓜皆で他の野菜と揶揄罵倒を言い合った事もあったな。流石にバイクは盗めなかったが、仲間の一人は尾崎に憧れて自らつるを切り命を絶った奴もいた。今でも伝説の男として語り継がれている、あいつ今頃は星になって、なんて。でもパンクがどうとかロックがどうとか痛いもんは痛いのだ。そしてそれに追い討ちをかけるのが、ひたすら続いているこの揺れで、というのが今俺は荷車の上でがたごと揺られていて、それは甚吉が俺のことを市場に持っていく位の大物の胡瓜だと見なしたということに相違ない。あい長らく努力忍耐してきたが、馬車に乗せられた時程の大感激は今までに感じた事が無かった。酒の酩酊だってなかなかのものだが、これに勝るものではない、それくらい、俺は今喜びを感じているのだ。手足が生えて、自由に動かせるようになったとしても、綺麗におうたが歌えるようになったとしてもこの喜びに勝るものかい。私、胡瓜と小鳥と鈴と、みんなちがってみんないい!美味しいきゅうり!ただ、この荷車の揺れというのはどうにかしてほしい。ごとごとと揺れるたびにとなりのトマトやきゃべつに当たってなんだか気遅れするし体が傷つかぬやら心配になるし、おそらくは向こうも同じような不安を抱いているに違いないのだ。頭の中でいつ聴いたかもわからない曲が流れる。

”荷馬車が 市場へ 子馬を連れてゆく ドナドナドナ”

否、俺の気持ちはそんなに悲しいものではない。寧ろ喜び勇んで戦地に旅立つ日本兵のような、そんな猛々しい、大胆不敵、そう、俺は今大胆不敵の勇者だ。ただ正義の味方というのはなんとも喜ばしくない、あまりそういったストレートな好かれる奴というのにはなりたくない、俺はあくまでシニカルに、笑っていたいタイプなのだ。だからこそ人間様に食われるという、己の死を夢見ることが出来る。思い返せば、畑の中には人に食われるのが怖くて恐ろしくてかなわない、助けてくれ助けてくれと、わめき散らしていた胡瓜もいたが、そいつは寝ている間にねずみに食われて死んでしまった。ねずみが云うには、ああいうのはどうせいい胡瓜にならないから悩む前に食っちまったほうがいいと云う。たいていどの野菜にもひとつくらいはそうやって自分の死を悲しむ阿呆がいるもんだ。死ぬ事を嘆くというのは、生まれてきた事を嘆くのと同じで、そういう奴は親の顔を足で踏んでるのと大して変わらない。早いとこ死んだほうがまだ親孝行だと俺は思う。先程日本兵の話をしたが、ああ云う連中は勝ってくるぞと勇ましく、死に行く為に生きるというああ云う奴等とは真逆の人間だったに違いない。ただまあ、そうやって母国のために死ねと云われても彼らと俺とでは全く状況が違うと思うし、そもそも考えることは大体似たような感じであっても俺達胡瓜の一生と人間の一生ではすべてが違う。羨ましいな、人間というのは。甚吉のように野菜を育てる為だけの人間にはなりたくない。どうせならもっと、こう、歴史に名を残すような感じ。そうだな、とんでもないやくざ、いや、マフィアのがいいな、それになって縄張りとか、そういったことで抗争をして、最後には皆撃ち合い殺し合いというのはどうだろうか。胡瓜として人間に食われて死ぬよりかはよっぽど格好のいい生涯だと思う。胡瓜というのは死に方も、死に場所も選べない。死に方なんて腐って死ぬか包丁で切られて死ぬか、それかけだものに食われて死ぬかの三種類だと思うし、死に場所なんてこの論理で行くと畑かまな板だ。無頼派気取り、厭世して生きたい様に生きるとか云ってる奴等の中では、まな板の上で死ぬよりかはけだものたちに食われて生まれ育った場所で息絶えるというのがファッションらしいが、俺はそうは思わない。どうせならけだものにナイフもフォークも無しに食いちぎられるより、吟味に吟味をこした調理をされて、人間様に有難がれながら頂かれるほうが嬉しいじゃないか。俺はそうする、そうなる、なってやるのさ。その為に今までこんなに鍛錬を重ね立派な胡瓜になったつもりだ。存分に味わって頂きたいさ。しかしまあこんな事を長々と考えられるくらい、荷車というのは暇で暇で仕方が無い。人間の移動手段の中には電車というものがあって、それに乗っているのが結構な暇らしくて、俺達には出来ない本を読む読書というものや、人間様の技術力によってどこでも音をもらさずに曲の聴ける何か機械があるらしくて、それで一人で電車というのに乗っていても退屈せずにいられるらしい。俺達野菜にはそんなもの持っていないしそもそも使える筈も無いので、どう退屈を紛らわしたらいいのか知らん。一人でしりとりでもするか。甚吉、ち、地球、う、瓜、り、林檎、ご、後鳥羽上皇、う嘘吐き、き、胡瓜、り、栗鼠、す、西瓜、か、鴨、も、もずく、く、熊、ま、ま、ま…
「ま、枕」
いきなり隣のきゃべつが云った。びっくりして俺の頭にある花のいちまいがひらひらと落ちてしまったじゃないか、おい。
「何をそう吃驚するかね、お前さんが口に出してひとりでしりとりをしていたから参加してやっただけだろう。」
なんだ、俺は声に出してしりとりをしていたのか、穴があったら入りたいくらいだが生憎ここに穴はないし穴があっても動く力というのが俺、胡瓜だからそもそも存在しない、困った。
「よし、いいだろう、二人でやるか。」
以下、二人でしたしりとりの記録である。

”駱駝、だ、達磨、ま、丸太、た、太鼓、こ、木霊、なんだお前というのは嫌ったらしいやり方をするな、ま、枕木、おい、それはせこくないか、き、きい、それは英語で云う鍵のことか、それとも変てこなことを指す奇異か、まあどちらにせよ、い、いくら、らっぱ、ぱ、ぱ、ぱだと、ぱんぷき、、いや駄目だ、ぱぱ、ぱぱ…”

ぱ、ぱ、ぱ、何故ぱのつく言葉がこんなにも出てこないのだ。ぱだと、ぱなんてのは破裂音だし、海外の言葉以外になにかあるのか、さっきキーとか英語を使ってしまったせいで英語を使うのがはばかられる。ぱ、ぱ、ぱ、おい、どうしよう、ぱだよ、なにかないのか、パン、いや、駄目だ、いや、いいぞ!
「パン粉!」
そう云った瞬間に大きな震動がして、身体が揺れたと思ったら、宙に浮かんだ。飛翔、そして落下。落下が収まった時、あれ程続いていた震動が収まった。と同時に、荷車が前方に見えた。全身の血の気が引くようだった、といったら語弊があるが、つまり、荷車の上から放り出されたのがわかった。表現が間違っている事を承知でもう一度云うが、血の気が引いた。俺の夢、果てた、いや、まだだ。俺は今まで要領良く生きてきたつもりだし、これからもそうするつもりである。足が無いって、そんな事はわかっている、足が無ければ足がある奴に運んでもらえばいいではないか。そもそも甚吉に運ばれるのだって要するにそういうことだったわけだ。よく考えろ、何が運んでもらうのに一番適しているのだ、犬は阿呆だから駄目だ、食われてしまう、虫達も駄目、あいつらの大好物じゃないか、俺は。ふったちのねずみがいれば、余裕のよっちゃんで荷車までもっていってくれるのだが。おらんか!ねずみ!おーい!やっほー!SOS、ね!ず!み!そうだよな、いないよな、くそ。
「どうかしましたか、胡瓜の兄さん。」
声をかけて振り返ると、そこには、翼の生えたエンジェル、もとい!鳥だ!すずめ!なんと云う救いだ。俺に対する救いと云うよりはむしろ、このままでは小説も止まってしまって作者も困るのでこの展開に作者が救われるし、この身の引き締まった素晴らしい胡瓜である俺を食うことができなくなる人間の皆様が救われたのだ。となるとなんとしてでもこのすずめに荷車まで戻してもらわなければいけない。
「す、すずめさん、助けて下さい、緊急事態なのです。」
なんというせりふ、よくもまあこんなへりくだった事が云えると自分にうんざり厭気がさすが、俺の夢のためならば躊躇するまい、媚びとりいってなんとか荷車まで持っていってもらわなければならない。
「なんだあ、生きていなければ食っちまうつもりだったのに、生きてるのか、つまらねえや。」
先程の発言で訂正すべき点があったとすれば、こいつの事を翼の生えたエンジェルなどと呼んでしまった事だ、くそ。
「いやあ、これしきの事でくたばる胡瓜では御座いませぬよ、どうか、あの遠くへ見える荷車まで僕を咥えていって頂けませんでしょうかね。」
思いとは裏腹に下卑た言葉が口から出てくる。だがそれがなんだと云うのだ。
「咥えて運ぶくらいだったら、食うよ、何を考えているんだ、お前は、胡瓜のくせに。」
「いやいや、そんな事を仰らずに、そうだ、貴方、トマトは、きゃべつは好きではないですか。僕の乗っていた荷台には高級なきゃべつやトマトがありますよ、それこそ、懐石料理のねたになるやつです。どうです、食ってみたいと思いませんか。」
「そうか、僕、胡瓜なんか水っぽいだけだしトマトのほうが甘くて好きだ、お前をくわえて荷台につれてってやるかわりにトマトでも頂こうかな。」
「そうしましょうそうしましょう、あの荷の中でも最高のトマトをお教えしますよ。お納め下さい。」
すずめは俺を咥えると空高く飛び上がった、荷車はそう遠くへは行っていなかった、よかった。
「あの、荷車です。そして、きゃべつとトマトが両隣にならんでいるでしょ、そこの間に降ろしてください、そして、そのトマトが最高のトマトですよ、今までに味わったことのないでしょう、ああ、そっと降ろしてくださいね、僕も最高の胡瓜なのですから、ええ、ええ、ありがとうございます、さようなら。」
すずめとトマトはどこかへ去っていった。トマトは咥えられながら俺に何かを叫んでいたようだがあまり遠くなっていくもんで「わ・・・を・・・ね・・・ろ!」「き・・・む・・・ち!」くらいにしか聴こえなくて、へらへら笑いながら「パードゥン?」とか云いながら笑っていたらきゃべつが俺を横目でにらんだので黙ることにした。以降、市場につくまで終始無言のまま俺達は揺れていた。


気付けば俺達は喧嘩になっていた。発端は茄子が馬鈴薯にぶつかったとか、そんなことだったように思う。