2011年3月24日木曜日

 うまい飯屋にたどりつくのはいい女と巡り合わせるくらい難しいことだが、うまい珈琲と出会うのは、千載一遇いい女と巡り合って、さらに夜伽まで持っていくことくらい難しいのであって、これ奇跡と言わずしてなんというのか。僕は齢十九年下天の内をだらぶらしておるが、美人な女と運良く、は何度かあっても、うまい珈琲に出会ったのは一度だけで、渋谷のどこだったか、少し外れた坂の途中にある店は珈琲は砂糖やミルク粉を入れずともおいしく、シフォンケーキもうまい、外で原稿を書くときはそこに行く。しかし僕も下天に堕ちて十九年、珈琲を飲みつくしたわけでもないのに、貴様珈琲のなにがわかると言われるがそれもしかり、不届き故この場を借りてお詫び申し上げよかなと思う。
 といっても、僕は我が家で珈琲、毎日湯水のように飲んでる。というのが、簡短極まりなくて、カップに砂糖と、粉と、珈琲の元らしいのをスプーン一杯入れてお湯を入れれば一丁あがりという、インスタント?を毎日作って飲んでる。まずい。砂糖と粉も分量気にせずに入れるもんだから、あまい。なら何故飲むか。たとえ話。きみは、いい女とできるからといって、自分のすぐそばにおる不細工、もっといえばあばずれかもしれんがそれを我慢するか、いや、君らがなんといおうと僕はしない。それを僕はきまって家族とリビングで飲むのだが、それはそれで風情があって、だから僕はまずい会話とまずい珈琲を大いにたのしんどるのである。僕の家のリビングというのが、親父の趣味、わけのわからん鮭を咥えた木彫りの熊がおったり古臭い銃をもった外人のおっさんの剥製がおったり、加えて近代的な薄型テレビがあるからして、家の中でとびぬけて不細工な部屋で、それがたのしい。しかも珈琲カップがないからティーカップで飲むから、余計不細工。こんなものを飲んどるとうちからだんだん不細工になってゆく気分がして、それはそれで、いい気分なのだ。