2011年6月2日木曜日

逃走



「私は、今までずっと、生真面目だったんです。そろそろ羽を伸ばしたいの、違う世界が見たいの。」
優子がウーロンハイを片手にそう云った。
「奥寺さんは私の知らない遊びを沢山知っていそうですよね。」
俺は瓶のモヒートが空になるのを口で確かめて、答えた。
「優子ちゃんも、知りたい?」
頭の中に流していたBGMはぎゅ、ぎゅいーんと浅井健一のリトルリンダに変わり、キザを気取るに調度いい塩梅の
優子は数秒間の沈黙の後、十数センチ程近付き、こくと頷いたので、俺は大きく口を開けてそのまま優子を飲み込むに至った。彼女の神経がぎこちなく麻痺していき、毒牙がついに下半身まで覆い尽くすともう唯の操り人形になって、俺の誘導するがままにモーテルへ。

-BGM変更、WE ARE THE CHAMPIONS/QUEEN -

疲れ果てて眠っている女を尻目にモーテルを抜け出しズボンのポケットから煙草を抜刀すると、外は霧雨が降っていて、クルッとそれを鞘に戻さねばならなかった。ああ、ちくしょう、ついてねえのな。どうしようもねえな、俺、どうしようもないな、神様。どうしようもない男にはどうしようもない女が寄り付くと云うが、どうしようもない男にこそ今まで真っ当に生きてきた、親の云うままお受験、それも名門女子高校女子大学ですみたいな女が怖いもの見たさでついていく事を俺は知っている。ホラー映画みたいなもんだよ、見たくないけど見たいんだ。それにその夜不安と憔悴で眠れなくなる事だって餓鬼じゃあないんだから知っているはずで、それでも見てみたい馬鹿は沢山いる。でもきっとそれは真面目だから、と云う事がつまりどうしようもない女になる事の因果の一つなんだろうと思う。なあに、俺も中学までは割と純粋な好青年だったのだ。それが今となっては道楽色漬けピンク色の阿呆になって、最早東京のあらゆる遊技場で奥寺富実雄と聞いていい顔をする奴はいない。それは別段俺が喧嘩が強くて恐ろしいとかそう云う訳では無くて、ひょこふらりと現れては人様の女だろうがなんだろうがおおよそ女と名の付くものは大抵を引っ掛けて行くからで要するに俺は同性からはとことん嫌われる所謂こましで、まあ別にそれを悪いとも思っていない。と云うのは今の暮らしに充足を感じているからであって、今から粛正、公明正大な人間になろうなんて云う気は全くない。雨をやり過ごして、大竹の家に向かった。といってもまだ明け方で、麻雀中毒の大竹がこんな時間に起きている筈が無いので、なんとか奴を起こしてあいつの借りているぼろ部屋に入れてもらうべく十数回程携帯を鳴らしているのだが、一向に出る気配が無い。この大竹と云う男は非常に大学生らしい奴で、滋賀から東京の大学に入り、一人暮らしを始めたのだが親からの仕送り約十数万、その金だけで生活している上、酒はやる、煙草は吸う、女好き、おまけに博徒であると云う模範的大学生、詰まる所生きている価値があるのかどうかすらわからない駄目人間なのである。俺は酒もやるし煙草も吸うし女好きであるが博徒でないと云う一点を頼みの綱にこいつとは違う。俺は百歩譲って駄目人間ではない。しいて云えばどうしようもない男ではあるかもしれないが、大竹よりは俺の方が幾分か優良な人間であると云えるだろう。そんなこんなで部屋に辿りついたが、矢張りというか当然鍵が掛かっていて、押しても引いてもうんともすんとも云わぬ。仕方ないのでチャイムを押すがそれでも音沙汰無い。しかし俺はここで諦める様な男ではない、チャイムをかの十六連打高橋名人ごたる押し続けた結果約125打目程で鍵があき、目が半開いている大竹が出てきて云った。

「何。」
「泊めてくれ。」
「いいよ。」

数時間程眠った。




昼頃に二人とも目が覚めてラーメンを食いに行く事となり、昨日あった情事について話したのだが、

「お前それは、きざだよ。」
と大竹は蔑んだ目で呟いた。
「きざかなあ。」
「きざだね。」
「でもそれくらいがいいんじゃない。」
「いや、きざって云うのは気、障、って書くんだから、気にさわるでしょう、やっぱり。」
「じゃ、お前だったらどう答えるんだよ。」
そこで俺は優子の声真似をして、大竹さんは私の知らない遊びを沢山知ってそうですよね、きゃ、なんて演技をした。
「うーん、いや、それしか無いね、残念ながら。」
「だろ。」
無言のまま麺を啜った。試しに入ってみた知らないラーメン屋だったが、とんこつラーメンと銘打っているくせに背脂の味しかしないでいやがるし、厭に店員の態度が悪くて、”二度と来ねぇよ”というアピールとして半分以上残した上にごちそうさまを云わずに店を出た。二人とも即座に煙草に火を付けた。
「不味かったな。」
「不味かったね。」
大竹のブラックデビルのバニラの香りが余計俺を憂鬱にさせた。
「でもさ、お前、優子ちゃんだっけ、そんなに遊び沢山知ってるの、本当に。」
「いや、別に。」
優子と初めて会ったのは”80年代J-POP”セッションで歌を歌った時、優子はキーボードだったのだが、下手糞ったらありゃしなかった。中森明菜の"飾りじゃないのよ涙は"をやったとき、あの曲は最初にドラムがドドドドッときてそこからイントロがキーボードで入るのだったが、優子のそこんとこの入りがなかなか上手く行かず、4回程やり直した末結局上手くいかずなあなあでもう歌に入っちまうことにした。そんな糞キーボーディストだったのけれどその後の打ち上げで何故か俺の所へ歌を褒め散らかしに来た。そこで趣味だの何だのについて語っていたらどうやら興味を持ったらしく飲みなおしませんかと誘いやがった。優子は別段可愛くないわけではない、と云うか優子というのは本名ではなくて、最近ぶっちぎりで売れているアイドルAKB48の大島優子に似ているからであって、寧ろ本名は印象に残っていなかった、まあつまり自慢になるが優子はアイドル並に可愛いのだ。だから、実はホテルを無言で立ち去ったのも、サヨウナラと云う訳ではなく、演出であって、今日の八時にまた会おうという趣旨の置手紙を残している。その事も大竹に告げると矢張り大竹は
「きざだ、気持ち悪い。」
と云って俺を蔑んだ。
「きざかなあ。」
「それぐらい自分でわかるだろ。」
「うん、まあな。」
そこからは大竹も用事があると云ったので、サヨナラして、約束時間、八時までの約五時間を、西村賢太の苦役列車でも読みながら待つことにした。





約束通りの場所に約束通りの時間、これを決して間違えず遅れずと云うのが俺の中でのルールだ、と云ったら俺の友人には"何がルールじゃ、遅刻常習犯のお前が云うな"と怒られてしまうかもしれないが、諸君、ルールとは破られるからルールなのだ。極力俺は時間通り規則通りに行動しているつもりだが、どう云うわけか時間が知らないうちに急ぎすぎて置いてけぼりを食らってしまう事が多くて、つまりこれは俺の責任と云うよりかは時間の責任であって無罪放免を許して欲しい。なんてくだらない事を云っているとただでさえ少ない友達が殊更に寄り付かなくなってしまうのでこの場を借りてお詫び申し上げたい。ごめんなさい。次からはしっかりと時間通りに向かいます。そう、次から。というのも今俺は電車の中であって、今は八時つまり約束時間丁度なのである。今回は駄目でした、次から気をつけます。なんとか馬場に着いて、ビックボックスの前に走っていく。遅れている、走っているのは苦痛でしかなかったので、歩く。が、しかし、ビックボックスまであと50mという所で走りはじめ、ビックボックスの前の優子の所へ辿りつき、如何にも遅刻を詫びるかのごとく息も切れ切れで、ごめん、と云うと優子は
「いいよ、そんな待ってないし。」
と云うたのであった。作戦成功である。ところが問題はカフェに着いた時起こったのである。
「ねえ、今日遅れた罰に、面白い遊びか、一発芸か、してよ。」
俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。そう、この女、俺にそういったものを期待していたのだ。もう一度云おう。俺は戦慄した。驚いた。たまげた。びっくりした。息を呑んだ。飛び上がった。虚をつかれた。愕然とした。ゲッ!目パチ。二の句が告げない。ワオ。なんということだ、もう一度、もういいか。
「落語とか、好きだったよね。やってみせてよ(笑)」
確かに落語は好きだし都都逸は好きだし猥歌俳句狂言スカッシュDJ韓国アイドルの踊り物真似その他ありとあらゆるものが好きで最近は南京玉すだれにも興味を持ち始めている俺だが、これは一瞬にしてやばいと思った。カフェやぞ、カフェ。公衆の面前やぞ。しかも馬場のカフェやぞ。もしそんな事をやってしまったら、万が一このカフェの中にうちの大学の学生が一人でもいるとしたら、あの奥寺富実雄は女の子の待ち合わせに遅刻した罰としてカフェで一発芸をやってカフェを凍りつかせたんだぜなんて語り話が大学中に広まり、そうなればもう末代の恥晒し、生きていく訳にはいかないのである。なんとか話を逸らしてそんな事はさせないように努めたが、全くもってそれが上手くいくことはなかった。
決心、俺はやります、やってやります。未来に出会う息子よ、孫よ、孫の孫よ、許して下さい、俺はやります。こんな俺を許して下さい、奥寺家の駄目人間を許して下さい。俺は敢えて太宰治のとある小説からこの言葉を引用させて頂く。
「気の毒だが正義の為だ!」
俺は床に置いてある自分のバッグを掴み取りカフェの出口目指してぶるんと両腕を大きく振って矢の如く走り出たのだ。走った走った走った走った走った走った走った!今何一つ考えていないのだ俺は!ただわけのわからぬ力に引っ張られて走っているだけだ。いつもの高田馬場の風景が光のように通り過ぎて行く。嗚呼、俺は今メロスだ。メロメロメロス。今ならお前と抱擁が出来そうだ。霧雨はもう降っていない、全てが、万物全てが俺を祝福してくれているように見える!セックスより、ドラッグより、酒の酩酊より、気持ちいいものが今俺の全身を満たしている!さあ、どこだセリヌンティウス!俺を力一杯殴ってくれ!