2022年9月9日金曜日

発酵と調理

発酵というのがいつか自分の大きなテーマになるだろう、とは薄々感じていて、発酵なんだよね〜とはずっと口にしていた。

ものには隙間がある。そこに油や、水や、空気や、言葉は入り込む。それは水のように滲み入る時もあれば、粉のように小さな穴を進んでいく時もある。人の五感、六感よりもさらに向こう側の第七官で感じ取られる何かもそこに入り込んでいく。生物の中に無数に存在する細胞だって、粉だって呼吸をしていて、動いている。苔も恋愛をしているかもしれないし、ぐい飲みと金魚だって恋をする。それは我々の認識する恋ではないというだけで。

人と人も同じ空気を吸い、そこにいるものに影響を与えつつ生きている。もしかしたら物というのはそこにあるだけで振動しているかもしれない。心臓駆動する人間などはそれで背後に人がいることになんとなく気付くのかもしれない。なんなら星も存在するだけで振動しているらしく、NASAでその衝撃波を音楽化したものが公開されている

https://soundcloud.com/nasa/juno-crossing-jupiters-bow-shock

発酵というのは生物における"食べて、排泄する"つまるとこ代謝であり、まあいっちゃえばその微生物にとっては糞便(あるいは文脈的には"こやし")なのであり、それが結果的に人間にとって良い影響を与える場合は発酵と呼び、害のあるものは腐敗と呼んでいる。

よく海外のドラッグ合法論争で言及されている

「ドラッグにいいも悪いもなく、ただ彼らは自然界に存在しているだけなんだ。」というやつと同じで、良いか悪いかを二元に決めるのはいつだって人間だ。

ドラッグの良い悪いは本論ではないのでさておき、発酵というのはそういう性質を持っている。して、彼らは物に付着し、あるいは入り込み、大きなものを少しずつ変容させていく。石は風によって、あるいは雨水によって削れたり、擦れたりして形を変えていくのと同じで、それは我々人間が感じられる速度ではなくゆっくりと、しかし着実に変わっていく。

藤枝静雄が書いた『田紳有楽』という小説は、骨董蒐集家の主人が掴まされた偽物のぐい飲みやら器やらを池に沈めておけばなんとなく味も出るだろ、みたいな感じで放り込まれた器や、そこに住む金魚やら、仏やら、はたまた神の偽物やらが出てきて大騒ぎする。

この小説ではそうやって主人の安易な考えに振り回された骨董等が主人を一泡吹かせてやろうなんて画策しながら動き回るが、藤枝静雄のコミカルさと、人間愛みたいなものが感じ取れるが、もしかしたら盗木や宝石など、人間の勝手で振り回された物等はより深い恨みを胎に抱えているかもしれない。

調理は"理"(ものごと)を"調"(ととのえおさめる)と書く。食材たちをあの手この手を使って自分ののぞむ形に動かしていくことは調理ではない。食材はそれぞれなりたい形が決まっていて、手当をして、あるべき姿に調える下僕のような料理人が自分の目指すべきところなのかもしれない。

そこに存在するさまざまなものは、互いに良い影響を与え合っていきましょう、珍妙奇天烈(=oddity)でも良く、ただそこにいるだけで良い。しかし誰かが理を調える必要はある。でなければ荒れてしまう。

先日新しい仲間と知り合った折、酒を飲んだ店にあった『日本の神様カード』というのを引いた。仲間が引いたカードはそれぞれ『高御産巣日神(タカミムスビ)神産巣日神(カミムスビ)』枠を飛び越え遊ぶ神々。自分が引いたカードは『天之御中主神(アメノミナカヌシ)』理を作り、世界を調えた万物の根源の神だった。

結構祈って、願をかけて引いた。万物の神だからすげー!最強じゃん!ということではなく、おそらく理をつくる神が自分のうしろにいる、ということは自分は場を調えつつ、周りの神々がやんややんや遊んでいるのを眺めながら酒を飲め、善哉、善哉と笑っていればよい、ということなんだろうと思っている(失礼だけど、事実この天之御中主神、世界を作ったあと何ら事績を語らずただ姿を隠したと記している)。

僕は人から受け取ったものを、それぞれあるべきところ、かたちに調えていく役目の人間だ、という風に考え始めています。そのままその人の通りで良い時もあれば、時には伝え聞いたことを自らの内にあたため、醸し、最適な形で渡すこと。これ発酵と調理に他ならぬ、と。

これ本当に難しいだろうなと思っていて、あるべき場所、姿を探すとき、自分を本当に消し去らないといけない筈で、本当にその人にとって"あるべき"とはなんなのかについてずっと考え続けるのってものすごく大変な作業で、かつ常に間違っているという疑いを自らに向け続ける必要がある。

あるべきものは、あるべきかたちにただそれ自身の力で少しずつ姿をかえていく。ただ、おそらくそれそのものの力では、ありたいかたちになれないものもいるのだ。”理”を”調”えるとは、そういったものたちに非力な手を差し伸べつづけることで少しずつぼんやりと生していくだろう。

2014年12月12日金曜日

電車


朝がはじまるのはきっと最初の電車がはじまってからで、それからというもの太陽の光は道を歩いていくサラリーマンを輝かしく照らすためのものだし、社会そのものがその光を浴びてきらめきだすからまともに生きていけない僕たちは建物の影から影を逃げ回るように、不快害虫のように人目を避いて歩いて行かなければいけないのだ。だってビルとビルを隔てて並んでいる道路や店やその店で売られているなにもかもは社会のなかで生きていく人たちのもので、何ひとつ僕のために売られていやしないのだ!僕がレジの前に立つと店の売り子たちは品定めをして、「おまえみたいなやつに売るようなものなんてなにひとつないね」と吐き捨てて目をそらすのだ。あの店の冷蔵庫に並ぶ缶は、その中身をどれがどういった製法で作られていてなどと詳しく知りたがるような人間のためにではなく、それをただおいしいと思って缶のまま飲み干す人間のために作られているのだ。もしくは、人に話すために三日もすれば忘れてしまえるトリビアとしてそれを知っていたい人間ばかりだ。それにしても道行く女性たちの艶めかしいこと!しかし彼女たちが望んでいることは彼女たちを喜ばせ賞賛してくれるような言葉だけなのだ。昨日のネイルの話。今まで知り合った男の話。くだらない話を寄り添って聞いてくれる男だけがほしい。壁のような男だ。彼女たちは化粧室のなかだけで鏡を見ているのではない、知り合いの男たちや女友達でさえも鏡なのだ。そのような生き方ができない僕にとって、彼女たちはショーウィンドウでしかない。決して手に入ることのない二次元的な生き物にしかすぎない。「おまえは相手から何かを得ようとしていない」誰かが未来で言った。すべてが平面的で触れることすらできないこの世界のなかで誰の目にもとまることない廃棄物のなかに塗れながら、いつか僕も廃棄物になってしまうのかと恐怖におびえているのだ。もうどこへも行き場がない。行き尽くしたわけではなく、ただ途方に暮れている。どれだけ歩いても本の上を歩いているようにたくさんの美しいものたちに触れることもできず、感じることもできずにただ眺めているだけで、やがて目さえも霞み、見ることすらできなくなっていくのだ。歩いても歩いても状況は好転しない行き尽くせないのはどこまでも行った気になっているだけかもしれない。慰めに手巻きたばこの紙を出してみる。葉を巻いて吸い終わってしまえばまた僕から去っていく灰となる。燃えて落ちる灰。自分で失くしていくくせに、離れていくなんて…そんな言い方はないだろ。高架線の下ではよくわからない機械が並んでいて、それらさえ線でつながっていた。それではじめて彼らは役割を為すのだろう。彼らのうちひとつがなんらかの故障でおかしくなってしまえばすぐさま電気屋だの、整備屋だの、取り替えていく。正常じゃないものは廃棄される。やがてゴミ捨て場で集まった正常でない機械たちは、線でつながる機械たちよりも親密にその身を寄せ合うけれどつながってなどいないし、互いの気持ちなど確かめようもないのだ。いずれ運ばれていくまで長い年月を過ごしたとして、挙句の果てにスクラップにされて一生離れることがなくなったとして、彼らの心は満たされるのだろうか?そもそも彼らに心はあっただろうか。そして、彼らほど俺は何かを考えているのだろうか。きっと彼らだって俺がこんな風に勝手にあれこれ考えているのをよくは思わないだろう。それこそ、俺が、誰かしらから向けられる奇異の視線を嫌がるように。朝日はより激しく罵倒をはじめた。出ていけといわんばかりに差し込む光。だがどこから出ていけというのだろう。あまりにもたくさんの場所から出ていかされてどこへも行き場がないというのにだ。いったいどこで閉じこもっていきていれば社会から蔑まれずに済むというのか。社会はあまりにも「希望」や「成長」、「理念」、「正義」といったものへの信仰を求めていて、片手でこぼれてしまわない程度のこれぽっちの幸せだけ抱えて生きていたいというような人間の肩を平気で揺さぶり、そのしずくも残さないようにしてしまう。そのしずくが無くなってしまってもなお揺さぶり続け涙だって枯れ果てるように僕の心の器を傾けつづけるのだ。僕のなかのさまざまな機械の配線が途切れはじめ故障したようになって、視界に砂嵐があらわれはじめる。いや、これは社会に砂嵐が吹いているのだ。なにも、みえるはずない。こんなせかいで、こんなまちで、荒々とした白黒の粒子しかみえない。やがて見えなくなっていくなにもかも、心に焼き付けておきたい風景などなにもない。

町をさまよい歩いて、目もとうぜん白黒で見えなくて、眠る必要もなかった。目がなにも見えないのだから目を閉じているのといっしょで、それでも目をあけていなければどこからか人がやってきて俺に蔑みの目線をよこしてくるかわからない。俺はつねに自分を守っていなければならなかった。夢というのはもっとも恐ろしくて、夢の中で俺はいままで見たものや聞いたものすべてに蔑まれるのだ。夢のなかの俺はもっとも俺を蔑む。いままで見てきたすべてを使って俺を罵倒し続けるのだ。俺が裁判長として行われる裁判に被告人俺として出頭し、そのくせ弁護人はだれひとりとしていない!傍聴人は裁判官の死刑宣告を待っている。もはやこの街では裁判傍聴はエンターテインメント。裁くなんて都合のいい言葉で、集団で俺を罵っているだけだ。しかし、俺のなかに俺を罵倒する社会があるのだ。心のなかで居場所を探しもとめるけれど、どこにだって目があってくすくすと俺のことを笑っていて、だからこそ日の光に照らされようものなら映し出された俺の姿をみて彼らは大笑いをするのだ。どこにいたって黄色と黒の二重線で「立ち寄らないでください」と叫び拒絶する。電車には乗ることはなかった。ホームの黄色いベンチでただひたすら人を眺めていた。駅の人々は俺を蔑みの目で見ない。彼らはなにかを見る余裕などないのだ。彼らは行き場所のある人たちで、その目的地に向かって全力なのだ。余計なものは見る必要がない。もしくは画面の中に夢中で現実世界、隣に座っている人間に興味なんてないのだ。しかし、そうした生き方こそがこの社会を生き抜くすべだということは俺だってよくわかっている。おそらく彼らの人生は素晴らしいものなのだ。ありあまる日常を予定や仕事で埋め尽くしてなにも考えないようにする人生こそがきっと。電車がまた到着して、サラリーマンやOLを吐き出しては吸い込んでいく。行き場所に着いてはまた新しい行き場に向かい、彼らは彼らの信じる「希望」や「成長」に向かって忙しく生きているのだ。彼らは何よりも時間がない。時間がないことが幸せなのだろう。俺のように時間が有り余ってただこうして茫然と座っていることは彼らには考えられない苦痛に違いない。彼らは俺のような人間をうらやましいそぶりをして蔑んでいるのだ。電車がまた到着して、サラリーマンやOLを吐き出しては吸い込んでいく。吐き出しては。吸い込んで。吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで、吐き出しては、吐き出しては、吐き出しては、吸い込んで、吸い込んで……。

2013年10月7日月曜日

ガラスの動物園



きいきいきいきいもうたえられないくらいうるさかった。まるでそこかしこばらばらになり響いて、ふたつの耳に集まってきて、ふさいでもそのすきまからすっぽりはいりこんでくる、脳髄の輪郭に打ちあたって反射し続けて永遠に終わらない騒音、黒板の爪かき、醜女の喘声。たまらない本当なら艶めかしくうつくしい音、そんなふうにみんな言うけど、果たして本当にそうかな、コオロギたちのなき声がこんなにもおぞましいのは雌ばかりだからで、みことはため息をついて、またうんざりした。ヘッセの『ダミアン』なんか読んでてどうするんだ。

――どっちが悪だったなんて、どっちでもいいんだよ。イヴのせいだよ。でもそしたらお前のせいになっちゃうもんね――

わかってるんだかわかってないんだか、レビは首だか頭だかよくわからない、でも目と口がついていて十分なソレを一度振った。蛇は喋れない。鼓膜も退化してしまって、もう何も聞こえないけれど、昔は聞こえてた。神が蛇を罰した時に奪わなかったのは頭の良さだ。頭がいい、なんて頭と胴体がくっついてしまったからもう言えないけど、賢いってことだ。見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿は実は日本だけじゃなくて、古代エジプト時代から世界中にあって、それって猿のほうがばあばあ喚いてる人間より賢いってことじゃん。
レビはガラスケースの中でおとなしくしていた。反対側のガラスケースで泣き喚いているコオロギたちをじっーっと見つめている。コオロギは、レビの餌だ。レビの為にみことが買ってきて、嫌々飼育しているのだ。ガラスケースをあまりにも綺麗に拭きすぎているせいか、コオロギたちは飛び跳ねては見えない壁にぶつかってまたきいきいしていた。その姿はどうみたってゴキブリに近い。ゴキブリもコオロギも、食品に対して害があるから害虫だという。ゲジゲジやヤスデは「不快害虫」といって、外見や動きが気分を害するから、害虫なのだ。多分ゴキブリもコオロギも、食べ物が人間と同じじゃなくて、ゲジゲジやヤスデみたいに虫を食べてたら「不快害虫」だったに違いない。ゴキブリは雄しかいなくなると一部の雄が雌に変わるらしい。それに似たようなものだと思う。みことが間違ってレビに雄ばかり与えていたところ、ガラスケースに雄がいなくなってしまった。すると驚くことに雌の一部がまともな羽もないのにきいきいとなくようになったのだ。コオロギの雄のなき声は求愛のためだから、雌がやってもなんの意味もなかった。最初は一匹だったが、そのうち半分の雌がきいきいわめくようになった。当然だけど、みことは、なく雌からレビに食べさせた。でも、いくら食べさせても残ったやつらから一定の割合できいきいするコオロギが出てくるのだった。
レビはどんな時でもおすまし顔で、いつも静かに、肩に自分を回してくれて、大丈夫だよ、あんなの気にすることないよ、っていう感情を肌伝えていた。レビは賢いから喋らないんだ、恋人同士の会話のように伝えたいことはいつもなにか言葉にしなくたってそこにあって、それでいい、かしら文字でことばあそびなんかしなくていい。それをあいつらはばあばあつらつら、きっと何もないからっぽから時間を引き延ばして意味のあることを言ってみたいだけなんだ、わたしはこうおもうわ、わたしはそうよ、あなたは?くだらない会話ことばにうごかされてガラス張りにいつか太陽が溶けていくのを待っているだけ、なかなかおわらない惰性でうごき続けるのは太陽がまさしくみんなの脳髄で心だからなんだ。
レビごめんね、って、でも、いいよねってちらっとレビのほうを見た。わかってるんだかわかってないんだか。みことはガラスケースを横から蹴り倒した。ガラスのわれてこなごなになる音はきいきいより全然ましで、むしろここちいい。静寂で光が指して、満足だった。ガラスの破片が突き刺さって動けなくなっているコオロギたちを見て、みこととレビは、十字軍みたいだなあ、ね、と思った。今度はなかない虫にしようね、とも思った。
レビのおなかの音が鳴った。